「やっぱり引き返そうよ。私、自信がないよぅ……」 「はぁ…、ここまで来ておいてそれはないでしょう。親父さんのお薬が買えないって  困ってたのはあなたじゃないですか。」 薄暗い構内を進む二つの影。おどおど周りを見まわしながらついてくる♀ハンターと 半ばあきれ顔で先を進む年若の♂マジシャンのペアである。 彼らが歩を進めているのは、後衛職の冒険者が力を試すアルデバラン時計塔だ。 既に数匹のパンクと1体のミミックを難なく退けているがハンターの顔色は冴えない。 「暗いし、ほこりっぽいし、見通し悪いし……」 「ミレナさん……ほんとに俺より年上なんですか!?このファイヤーウォールがそんなに信じられませんか。」 「ぅぅ……そういう意味じゃなくて……」 黙り込んでしまう。普通は二次職が一次をひっぱるものじゃないのか、とマジシャンことアルヴィンは不満で仕方がない。 すみれ色の髪を後ろでまとめた快活なイメージとは裏腹に、控えめな性格のミレナ。 射手として十分な技量を持っているのだが、自信が持てない所作に彼は複雑な感情を抱いていた。 自分では彼女に安心を与えることがまだできていない。もっともっと強くならないと―― 「……そ、そろそろ、」 「ちっ、まだエルニウムがでないな。ケチりやがって……」 黒こげになって崩れたクロックを調べながら意識して彼は泣き言をさえぎる。彼女の動きは事実申し分なかった。 位置取り、狙い、判断に狂いはない。巧みに設置する罠と釣瓶打ちでラドワードとクロックに挟まれたときも 危なげなく切り抜けたのだ。なんの問題があるというのだろう。マジシャンの方は不思議で仕方がなかった。 「まだ何も出してないでしょ。ほら、次、次」 アルヴィンが曲がり角を折れて見えなくなると、慌てて小走りで後を追いかけるミレナ。 二人の所属するギルドではお似合いだとささやかれた、この微笑ましい光景。 しかしそれは、まるで砂上の楼閣のように崩れ去る。 理由などもなければ、運命でもない。幽鬼の跋扈するダンジョンに足を踏み入れるということの 一つの結末に過ぎない。 「あ……」 アルヴィンの気が抜けた声と、連続した鋭いダッダッダッという刺突音がミレナの耳に 届いたのは同じタイミングだった。不意に長い回廊の先が明るく照らされる。 不安げだったミレナの顔からさらに血の気がひいてゆく。曲がり角まであと10m。足が動かない。 「ぁ……アル、ヴィン……?」 掠れるような声でマジシャンの名を呼ぶが返事はない。聞こえなかったのだろう、ともう一度息を吸うと 曲がり角から常人の二回りは大きい体躯、隠者のようなローブを身にまとった魔物、エルダーが姿を現した。 「あ……あ、ぁぁ…………」 そして、その豊かに蓄えた顎髭と、白い法衣には真新しい赤いまだら模様が散らされていた。 「う、嘘……、何……これ………」 石畳には血の海。エルダーの裾から、重力に反して紅染めが徐々に広がってゆく。 深い闇をたたえた頭巾の奥には二つの怪しく光る紅い目。それがミレナを射すくめ、動かした。 頭で反応するまえに、彼女は駆け出した。絶望と、恐怖と、悲哀……これら、黒い感情が 正常な思考を彼女から奪ったとき、動物的な本能がそれに取って代わったのである。 息を切らしながらとにかく走った。クロックやラドワードともすれ違い、さらに逃げた。 「っ!」 段差に足をとられて盛大に転倒した。弓を持っていた為、受け身もとれず顔をしたたかに打つ。 そこから彼女はもう立ち上がれず、うずくまって涙を流した。 「……ごめんなさい、アル…うっく……ごめんなさい……もしかしたら、生きて、っ、いたかもしれないのに、  逃げ出し、て……ぐす……」 自分が情けなくて、申し訳なくて、ミレナにはただ泣くことしかできなかった。 そもそも、彼女はもともと冒険者になるような人柄ではなかったのだ。 人と魔物が併存するという世界でなかったなら、彼女がハンターとして弓を取ることは無かったに違いない。 狩りの腕前、身を隠すこと、罠の扱い方は場数を踏むことで腕を上げたが、その本質を変えるまでにはならなかった。 彼女の弱々しい、押し殺した慟哭が時計塔に木霊した。 涙も枯れ果てた頃、ミレナの心の支配者は悲しみから、再度、恐怖へと移りつつあった。 機械時計の時を刻む音、低く不気味に響く鐘の音、遠くから聞こえる魔物達の這い回る音……。 時計塔は、静かなようで耳を澄ませば様々な音に満ちあふれていた。 何とか立ち上がって、角弓を握る。彼女を少し手荒ながらも気遣い、時には過保護すぎるほどに守ってくれた マジシャンはもういない。身を守れるのはこの弦が張られた貧相な棒しかないと思うと、 心細くてたまらなかった。矢も罠も心許ない。そして、どこに自分がいるかもわからない。 「あははは……ハンター失格だなぁ……」 乾いた笑いの漏れる唇は切れ、額には痣。涙の跡が残る彼女の表情は変わり果てていた。 壁にもたれて、考えようとするが、頭は働きそうにない。 バサ 「……?」 何かが上から落ちてきた。それは少し固くて、肩を打ち床に転がった。 彼女が正常な状態なら、それが何であったか瞬時に理解し行動しただろう。 だが、そのような俊敏は今の彼女には望むべくもなかった。 それは凶暴な口を開いて無防備な侵入者に襲いかかったのである。 反射的に弓を構えたが遅い。何より近すぎた。難なくラドワードの牙が 彼女の顔に飛びかかる。彼女は一瞬視界を遮られ、その直後に耐え難い激痛が走った。 「ぐぅっ……あ、ァ……ぁあぁぁぁ、ああああぁぁあぁ!!」 端整だった顔は、左眉から顎までごっそりと肉をそがれていた。血のにじみ出る皮下組織を、顎骨を晒す。 押さえれば痛みがなくなるとでもいうかのように、はぎ取られた顔を手で覆いながら後ろに倒れ込む。 「いやぁあぁあぁあぁ!!いァい!いぁい!イタいぃっ!……ぐっ!?」 ラドワードは哀れなハンターに容赦なく次の一撃を腕に加える。 白くて締まった左腕にいくつもの歯形がついてゆき、そこから鮮血があふれ出る。 顔面に走る信じがたい激痛と、視界を失われた混乱から、為す術もなく次々と牙が打ち込まれてゆく。 「ぁがっ!…ぅっいぁ!、あぅ、ぐぅぅぅ、うぅぅっ!」 何度も何度も噛み付かれ、肘以外にも間接があるかのように奇妙に曲がり、 痣と、流血の川と、引き裂かれた肌、剥がれかかった肉がなんとか腕を繋いでいるにすぎない。 そしてその先端部、手のひらにラドワードがしっかり食らいついていた。 「いァ、放ひてっ…!……放してぇっ!」 渾身の力でなんとかラドワードを引きはがす。引きはがそうとする右手も噛み付かれ、血だらけだ。 噛み付かれた手のひらは爪の剥がれた親指と薬指を残して根本から骨を覗かせている。 右手は、腰に差してあったダガーに向かい、引き抜いてそれをめちゃくちゃに振り回す。 「くゥなぁ!うぁっ、ぁあぁっ!はぁ!」 顔からは、血と、涙と、皮膚を垂れ流しながら、必死に人食い本を威嚇する。 上半身はリスクが高いと見たのか、次に囓られたのは足だった。 「ッッ!!」 そして足の甲から噛みちぎらんと、歯ぎしりをし始めてから、絹を裂くような悲鳴が時計塔を突き抜けた。 「いってぇ……畜生……お、俺はっ、あっつぅっ!?」 「息を吹き返したのか、たいしたもんだねぇ」 アルヴィンが目覚めるのと同時に、体中の悲鳴を受けて喘ぐ。確か、ファイアーボルトの雨を体中に受けて、それで……。 「私が倒れた君を見かけたのはほんの偶然だった。今、自然の理に反して君の魂は肉体に止まっている。まだ動くんじゃないよ」 そう言われると、マジシャンは有無を言わさず頭をおこされ、白ポーションを口に流し込まれた。 咳き込みながらも飲み干して、見上げるとそこには初老の司祭が目に入る。 顔にはしわが幾筋も入り、年期を感じさせる。しかしそれは死にかけた彼にとって、とても頼もしく思えた。 「あ、アンタは、くっ……いや、そんなことより、助かりました、もう死んだかと……」 「夜明けの番人に君は弾かれたみたいだなぁ。まぁ、年寄りのリザレクションも捨てたものじゃない」 そういいながら、アルヴィンの服を破いて、包帯を巻きつつヒールを掛けてゆく。 「最近の若くしてなる司祭連中はねぇ……こう、慎み深さに欠けるんだよねぇ……」 「そ、そうなんですか」 説教臭い話をしながらも処置は進んでゆく。 極めて手慣れたもので、安心して彼はされるがままにした。そして、意識がだんだん明快になって行く中で、 「あ、アイツは!?ミレナは!?」 「おっと、いきなり大きな声を出すんじゃないよ」 傷の処置も終わらぬまま彼は傷む身体を撥ね起こして走り出す。老司祭が、まだ動ける身じゃないと言葉を投げたが アルヴィンの頭にはもうその声は届いていなかった。一刻も早く戻ってやらないと―― 「はぁ……、ぁ……こほっ……ゴホッ!……は、ぁ………」 弱々しい息づかいが、床にあまりにも広がりすぎた朱が、消えつつある生命の火を表していた。 脇にはダガーが深々と書皮に突き刺され、息絶えたラドワードが転がっている。 赤黒くなったぼろぼろの靴のつま先部分が奇妙に潰れ、反り返っている。 千切れず肩についているのが不思議なほどの左腕は、ゾンビのように鈍色と化し、 溢れた血もタールのような黒にその色を変えている。 左腕よりはましという程度でしかない右腕は、刀身を握り、手のひらから最後の鮮血を滴らせている。 「ごほっ……やっ、ぱり……はぁ…抜け…無い…はぁ……かぁ…」 その刀身、正確にはエクスキューショナー――が深々とミレナの腹に突き刺さり、回廊の壁に彼女を縫いつけている。 よほど魔剣が暴れたとみえ、不規則に切り開かれた傷口からは優に取り返しのつかないほどの血が零れ出ていた。 か弱く息をする毎に苦しそうに、咳き込み、閉じられなくなった口から吐血する。 髪留めが外れ、おろされた青紫の長髪も黒く染まっている。これじゃぁ、助けにきたアルヴィンに気づいてもらえない、 そんな事が今際のきわにあるミレナの思考にぼんやりと流れた。 「あ……げほっ……あんな、所に………」 刃を放して、――その時固まりかけた血の糸が引かれた――、唯一なんとか動く右手をダガーに伸ばす。 本人は贈ったこともとうに忘れているみたいだが、今まで放さず大事に使っていた。 それを取り戻そうと手を伸ばすがうまく動かない。これでは使い捨てにしたみたいにみえる。 手を緩慢な動きで伸ばすがあと少し届かない。それとももう既にそれすらも叶わなくなっていたのかもしれない。 「……レナ!……どこ………ミレナ………!……」 彼の呼ぶ声が聞こえる。"向こう"からわざわざ迎えに来てくれたのかな……。 私、よく迷子、に、なる、か、ら―――