濡れ砂4 「もう動いて大丈夫なの?」 「大分良くなった。あの子のおかげだ」 いつもの如く素っ気無く、そして礼の如く沈着な口調で女アサシンは調子を問い、黄色い路面を後ろからトボトボと付いてくるアコライトの少年を指差しながら、モンクはそれに答えた。 女アサシンが、出血多量で意識を失ったモンクにヒーリングを施してくれた、通りすがり(名目上)のアコライトの方を振りかえると その女顔で華奢な体型の少年は、目を丸く見開いて怯え、真っ白になりながら、頭の天辺から汗をドクドク流して震えた。 実はこのヴィンセントと名乗るアコライト、今二人が追っている“マスク男”の事を知っており、立場上目撃者を残したくない女アサシンとしては、すぐにも“始末”しなければならなかったのだが 死に瀕したモンクを助けるという条件で、その件を不問に付す事にしたのだった。 だからマスク男を追う二人を尚もしつこく付いてくるヴィンセントは、今も女アサシンの鋭く冷たい瞳で睨まれると竦んでしまう。 『私が“泣きながら助けを呼んでた”なんて事を彼に話したら…イロイロな事をするからね』 ヴィンセントが彼女を恐れる理由は、実は他にもあったわけだが…その…イロイロと。 炎天下黄色い路面を行く二人…と、ヴィンセントは、やがて治安部隊の騎士団員達が、何やら物騒な雰囲気で走りまわっている場所にやってくる。 彼方此方で激が飛び、騒然とした彼らの表情は皆強張り、時には負傷した者を運ぶ担架も見られた。 その負傷者は大抵、甲冑を撃ち抜かれた小さな傷口から大量の出血を伴い、それを看る医療係は止血の為甲冑を外そうと苦労していた。 ヴィンセントは居ても立っても居られず、彼らと共に負傷者の治療を行おうと駆けていった。 しかしモンクと女アサシンは、ここに怪我人の治療を行いに来たわけではない。 彼らの仕事はヴィンセントとは正反対…ある人物の息の根を止めにきたのだ。 「やっと来たか」 騎士団員の指揮を執るのは、綺麗な銀髪を短く切り、凛々しく鋭い瞳に強靭な意志と使命感を宿した女騎士、ゾーイだ。 しかしゾーイの表情に余裕は一切無く、どうやら戦況が良くない事は直ぐにも見て取れた。 「頭下げろ、やられるぞ」 前線に出ている騎士団員が、皆姿勢を低くして遮蔽物の陰に隠れているので、二人もそれに習ってゾーイの元に這って近寄っていった。 案の定、甲高い破裂音と共に、モンクの頭数センチ上を銃弾がかすめ、そう何度も撃たれてたまるかと言わんばかりに、彼は口元を歪めて舌打する。 「状況は」 「良いわけ無いだろ!」 女アサシンの感情を表に出さぬ口調の問いに、ゾーイはそれに反して感情剥き出しの露骨な口調で口走る。 「ちょっと前に、例のマスク男の潜伏する盗賊グループの拠点が判明してな…情報元は聞くな、企業秘密だ…鼻息荒げてやって来たは良いが、この様だ…くそっ!」 再び銃声が鳴り響き、その度に全員が身を縮めて物陰に隠れる。 厳しい訓練と死線を渡り歩いた豊富な実戦経験を持つ、百戦錬磨の国教会騎士団が、直径ほんの9mmに満たない金属片に怯え、縮こまる姿は、妙に滑稽に見えた。 「おまけに悪いニュースだ。今朝方、ソグラド砂漠北部を巡礼中だった聖職者の一行が賊に襲われ、抵抗した司祭が死亡、アコライトの男女十数名が誘拐された。いずれも未成年だ。 そしてその賊が襲撃の際使った武器が…」 「今、俺達がビビッて顔出せないでいる、アレか」 だが彼らは今、その盗賊団が砦としている倉庫跡地をぐるりと包囲し、数の上でも圧倒的多数を誇っている。 既にゾーイは飛び道具に対抗する為、魔術師や、猟友会のハンター達を応援として要請しており、人質となっているであろう、聖職者達を除けば、彼らが攻勢に出るのは時間の問題と言えた。 しかし女アサシンとモンクは、今までのマスク男の所業から見ても、到底安心できる状況ではなかった。 「あの男は、何を企んでいる?」 ローグの首領は、何食わぬ様子で(マスクをしているので表情は分らないが)やってきたマスク男を見るなり、がなり立て、喚き立て、罵り、怒った。 今彼らの拠点を包囲している治安部隊について。 その治安部隊が何故ここを特定できたかについて。 自分の手下を勝手に使った上、自分には何の相談も無しに攫って来たアコライト達について。 そもそも何故自分の手下達が、自分の許可無しにマスク男と行動したかについて。 それら全てを感情の勢いでまくし立て、その様は幼稚であり女々しくもあった。 「手前どうする気だ!俺の盗賊団をどうする気だ!いや、手前は全部知っていて、こうなる事を分った上で、俺達を利用しやがった。本当なら貴様は直ぐにも挽肉にしてハゲワシの餌だ! だが悔しいかな、手前の事だ。この状況から抜け出す逃げ道はもう用意してあるんだろうが、えぇ!?だから俺はもう貴様に手を出す事もできねえぇ! 恐らくは俺の部下の内何人かは手前に毒され、いざとなりゃ、俺よりも貴様に付いて行くだろう。もう俺の組織は終わりだ!」 マスク男は呆れたように両手を広げ、溜息交じりに笑って見せる。 「まぁまぁ落ちつけよ。前にも言ったろ?『俺はお前を裏切ったりしない』ってさ。だから任せとけ。悪いようにはしない。金だって手に入れたろう。俺を信じろ。ヒヒヒッ」 当然そんな言葉は信用に値せず、ローグは 「背中に気をつけろ」 と言い捨ててその場を後にした。 残されたマスク男は、割れた窓から銃を構えて治安部隊を迎え撃つシーフやローグの肩を軽く叩き、ケタケタと押し殺したように笑い続ける。 「HAHA-! Get some baby!」 「随分楽しそうだな大将」 様子を見にやってきた鍛冶屋の青年は、その破滅に向かって突き進むキチガイ男の狂乱ぶりに、顔をしかめて言った。 気付いたマスク男は振りかえり、その鍛冶屋のすぐ後ろで目を逸らしている錬金術師のジャクリ−ヌに一度視線を向け、やや落ちついたよう聞く。 「首尾は?」 それに対し、さっきまでそっぽを向いていたジャクリ−ヌが、割ってはいるように答えた。 「使える銃は20丁。弾は各30発。相手も飛び道具持ってくるだろうし、持久戦になったら長くは持たないわね」 だがマスク男は動じず、手懐けたシーフに何やら指で合図し「ズルリ」と唾液を啜り上げてから言い放った。 「なら、相手に出てきてもらおうじゃないか」 膠着状態が続いて数時間、弓隊や魔術師達がようやくやってくると、途端にゾーイは血気盛んな猪武者の如く奮い立ち、荒くれ揃いの騎士団員達に激を飛ばす。 「よーうし、今度はこっちの番だ!弓隊及び魔術師の援護で突入。クソ野郎の巣に殴りこみだ!ケツの穴を絞めろ!皆殺しにしろ!ただし、マスク男だけは…」 だが彼女の威勢は、赤いレンガ作りの倉庫跡から、フラリと姿を表してこちらにヨロヨロと歩いてくるアコライトの少女によって水を刺される。 その少女は負傷している様子で、出血の続く脇腹を抑えながら、必死の形相で這うように治安部隊の方へと向かってきた。 治安部隊の全員が、呆然と見つめる中、倉庫跡の割れた窓が一瞬銃声と共に光り、怯える少女の足元に当たり、砂埃を上げて彼女を追いたてる。 少女は悲鳴をあげ尚も歩みを速めるが、対するゾーイは、その少女の体に巻かれた不自然な物体に目を見開き、驚愕の声をあげる。 「あぁ、そんな!何てこと!…全員下がれ、後退だ!」 ゾーイの指示に、その場に居た全員が耳を疑ったが、ようやっと状況に気付いた彼らは逃げるように走り出す。 少女の体には爆発物が…それも、殺傷力を高める為に鉄球を幾つも仕込んだ、高性能の爆弾が取り付けられていたのだ。 怯える少女は、治安部隊が逃げるように離れて行くのに気付き、助けを求めて泣きながら追いすがるが 誰一人として、彼女を救い出そうとする者はいなかった…いや、治安部隊、国教会騎士団団長ゾーイだけは、歯を剥き出し目元を歪めて立ち止まり、振りかえった。 「誰かぁ…助けて……助けてよぅ…」 「………」 「誰か…っぁあ!」 再び鳴り響いた銃声と共に、脚を撃ちぬかれた少女は崩れ落ちるように倒れ、その姿にゾーイは、一年前の首都テロの際、自分が助けられなかった少女の姿を重ねてしまう。 ゾーイの様子がおかしい事に気付いた女アサシンは、駆け出そうとする彼女の肩を抑え、静止しようとする。 「無駄だ!あの子は助けられない!」 だがゾーイは、その腕を振り切り 「小娘一人助けられないで…何が騎士だ…」 と、一言だけ言い残して走り出す…両目に涙を湛えながら… ゾーイは虫の息になった少女に駆けより、その細い体を力いっぱい抱きしめ、泣きながら自分の愚かさを呪いつづけた。 「畜生、畜生、畜生……」 「かかったか。やれ」 マスク男は笑いを堪えるように言い、それを合図に、窓から銃を構えていた一番扱いの巧い盗賊が引き金を引く。 轟音、閃光、衝撃波、近付く者を引き裂く無数の鉄球…ついでバラバラに吹き飛んだアコライトの少女と、ゾーイの体の一部が、血の雨と一緒に治安部隊の頭上に降り注いだ。 その光景をただ呆然と見つめていた、モンクと女アサシンの二人… 自分達の指揮官を、一瞬で細切れの肉片とされた騎士団員… 必死に負傷者の治療を行っていた、ヴィンセントの目の前にも… 「ア………そんな…こんな事……何で……」 未だ痙攣し続ける女騎士の腕を、大きく見開く瞳で凝視しながら、口をパクパクさせていたヴィンセントは、やがて思い出したように悲鳴をあげる。 「きゃぁああああ!」 「………」 「…やってくれるわね、あいつ」 ギリギリと歯を軋ませ、全身をワナワナと震わせるモンクの背中を見つめながら、女アサシンは爆風で乱れた髪を整えるように撫で、いつもの冷たい口調で言う。 しかしその手は声色と裏腹に震え、どうやらモンク同様、耐えきれぬ怒りに腹の底を煮え滾らせている事が知れた。 目の前で指揮官を挽肉にされ、右往左往する治安部隊のわめき声に交じり、遠くで微かに響く、ヴィンセントの黄色い悲鳴を聞き取ると、モンクは女アサシンの方に振り向き、もはや説明する言葉も見つからぬ壮絶な表情を浮かべて言う。 「奴を、殺そう」 「…そう、そうね…今度は“私達の番”」 凄まじい衝撃波をしゃがんでやり過ごしたマスク男は、飛び散るガラスの破片が一段落ついてから顔をあげ、ガラスの吹き飛んだ窓から外の様子を伺う。 先程までアコライトの少女が居た辺りは、黄色い敷石の路面が見事に抉れ、飛び散った血と、どの部分かも分らぬ人体の一部が残されているだけで、もはやその姿形は見る影も無かった。 更にその先、治安部隊の騎士団が隠れていた辺りには、飛び散った鉄球が穿った小痕が幾つも見うけられ、負傷者も大分出ているであろう事が知れた。 「ヒャッホウ!成功だぜ!」 「やつら泡食ってるぞ!」 「治安部隊だろうが、騎士団だろうが、かかって来やがれってんだ!」 早速盗賊達ははしゃぎ出し、マスク男は爆風で飛んだ帽子を拾い上げると、先程爆薬を狙撃した盗賊団一射撃の巧かった盗賊の肩を叩く。 「ようし、良くやった。ここの事は任せる。奴らが顔出さないようなら、10分置きに同じ手で揺さぶりを駆けろ」 盗賊団が誘拐し、拉致したアコライト達は、まだ10名はいる。 盗賊達が時間を稼いでいる間、ジャクリ−ヌと鍛冶屋の二人を連れたマスク男は、脱出経路を確保する為に行動を始めた。 「下水道の入り口は?確保してあるか?」 「大丈夫そうだ。治安部隊の連中も気付いちゃいない。だけどよぅ…」 誘拐したアコライト達にポータルを開かせるというのも一つの手ではあるが、それは外の治安部隊も想定しているはずで、既に各都市のポータル転送ポイントには部隊が展開して待ちうけている可能性がある。 だからという理由で下水道なのだろうが、マスク男の問いに答える鍛冶屋の青年は、しかし合点の行かぬ様子で続ける。 「あそこは狭いし、大勢で通るには一目に付きすぎるぞ」 マスク男は振り返り、当然と言うか何というか、二人を呆れさせる程悪辣な本音をサラッと言い放った。 「誰が大勢で行くと言った?」 分りきっていた事だが、はなからマスク男には、盗賊団の者達を連れて逃げる気等無く、治安部隊達と交戦中のローグやシーフ達も、マスク男からしてみれば、単なる捨て駒でしかなかった。 「何処へ行こうってんだ、このクソ野郎が」 下水道への入り口であるマンホールは、倉庫跡の地下室の奥にあったが、その前でマスク男達を待ち構えていたのは、札束ではなく“紙くず”の詰めこまれた鞄を持ち、苛立たしげに銃口の先を米神に擦りつけているローグの首領だった。 彼は鞄の中から覗く新聞紙の切れ端を一束取り出し、自分達に黙って逃げ出そうとしていたマスク男の前にそれを放り出す。 「なぁ、こりゃぁ、どういう事だ?俺は夢でも見てたのか?…何で、何で金が紙切れに化けてる…何でだ、えぇ!?」 マスク男はウンザリしたように肩をすくめ、両手を不真面目に広げて首を左右に振る。 その仕草に怒りを堪えながら、首領はマスク男の右後ろの女錬金術師、ジャクリーヌの方を睨む。 するとジャクリーヌは、ほくそ笑みを浮かべ、懐から銃を取り出すと、それを構えて激鉄を上げた。 マスク男は背後で鳴った金属音にも、さほど驚いた様子は見せず、しかしその左手にいた鍛冶屋は泡を食った様子で狼狽した。 「あ、姐さん!」 首領は勝ち誇ったように高笑いする。 「はは!どうだ、驚いたろう?俺だって少しは考えるし、保険だって用意してあったのさ」 「…鈍いよな、お前」 だがマスク男は相も変わらず、いつもの調子でほざき、ほくそ笑みを続けるジャクリーヌは、マスク男の後頭部に向けていたはずの銃口を逸らし、それを今度は首領の方に向けた。 そして途端に首領の表情は凍りつき、ようやく自分がこのメス犬に一杯食わされていた事に気付く。 「言っただろ…“俺”はお前を裏切らないって」 甲高い銃声の後、胸を抑えて崩れ落ちた首領の屍に“現実主義者”のジャクリーヌは言い捨てる。 「ごめんね。でも…あなたじゃ“コレ”は扱いきれないだろうから…アッチの扱いは巧かったけどね」 金をすり替えたのは他でもない、この目狐ジャクリーヌであり、彼女は最初からマスク男の協力者だった。 マスク男は別に彼女に命令して首領に近付かせたワケでもなく、自分の周りで起こる幾つかのイレギュラーからして 例えば、治安部隊に襲撃された反国王派テロリスト達との会合場所で、テーブルの下に何故か見覚えの無い銃が用意されていた事… 等から、このジャクリーヌが、首領の側と見せかけている“自分の協力者”である事を確信していたのだった。 現実主義者であるジャクリーヌからして見れば、先行き危うい盗賊団に付くよりも、悪巧みに関してだけは天才的であるこのマスク男の方が余程魅力的だった…と、そう言う事なのだろう。 もちろん、この異常なほど抜け目無く狡賢いマスク男の事だから、自分が何か言わぬとも状況だけで全て判断するであろう事は、彼女にも分っていた。 「そいじゃぁ、行こうか」 マスク男の一言に続いて、未だに目を丸くして何が起こったのか分らぬ鍛冶屋の青年は、合点のいかぬ表情のまま、商売道具の工具でマンホールの蓋を開く。 魔物の口の如く、湿気と暗闇に包まれた穴へと、彼らは踏み込んで行った。 その水先案内人は、悪鬼と呼ぶに相応しい、この不気味なマスク男だ。 「はやく!はやく止血を!」 「誰か来てくれ!」 「クソ!団長がやられた!地獄だ!地獄だ!」 「神よ!」 「どうすれば良いんだ!クソ!また来るぞ!」 爆発物に仕込まれた鉄球は、爆風と共に広域を粉砕し、地獄絵図と化した現場は指揮官の死亡も相俟って阿鼻叫喚の巷と化す。 マスク男の策略は予想以上の効果を齎し、オマケに、先程爆散したのと同じように、定期的に倉庫跡から送り出される爆薬付きのアコライト達によって、事態の収拾は尚も追いつかなかった。 アコライト達は先程爆死した自分の仲間達を見ていた為、必死の形相で喚き散らす者、既に絶望し、祈りながらフラフラと歩き出す者様々だったが 治安部隊はそんな彼らが、自分達への被害範囲に入る前に“やむを得ず射殺”する事しか手が無く、弓を射るハンターや魔法弾を射出する魔術師達の形相は、恐怖と怒りと悲しみの混じった混乱の様相を呈していた。 悲鳴と怒号、定期的に響き渡る爆音に震えながら、ヴィンセントは彼方此方走りまわり、負傷者の治療をして周ったが、その精神はそろそろ限界が見え始めていた。 そんな時、彼女の目に写ったのは、もはや考える事を放棄したような、ただ一つの目的しか頭にないのが一目でわかる表情の、モンクと女アサシンだった。 「…奴がどう出るか…知ってるな?」 モンクはヴィンセントに詰めより、襟首を掴んで締め上げる。 弱々しい悲鳴をあげるヴィンセントは、以前マスク男と行動を共にし、何度も危機を潜りぬけた経験があるのだから、こういった状況の際、あの畜生にも等しい男がどう逃げるか知っているはずだ。 ヴィンセントはもはや、モンクの目的に何か言い返す事もできず、涙目になりながら、細い声でもらす。 「……下水道」 やっと手を離したモンクはヴィンセントに背中を向け、尻餅を付きながらも、自分達に付いて来る気が明らかなアコライトに、まるで素っ気無く言い捨てる。 「言っても無駄だろうから、付いてくるなとは言わない…俺達は奴を殺す」 二人が去っていった後、ヴィンセントはうつ伏せになって嗚咽し、小さな拳で硬い路面を叩きつづけた。 薄暗い下水道の底。ズズゥゥン…と、定期的に鳴り響く振動音に、マスク男はグロテスクなガスマスクの下でケタケタと笑い、自分に関わった全てのバカ者共を嘲笑った。 マスク男の目的は、もはや完全に達成された。 マスク男は禁制品を流出させる事によって、このモロクの治安を最悪な状態に陥れ、各地で続発したテロによって戒厳令が発令したのを好機に、展開した治安部隊を実験対象として、禁制品の持つ邪悪な力の程を実演してみせた。 『思想も主張も要求も無く、ただ混沌とした、全ての人間を撒きこんでの内乱状態を作り出す』 それがマスク男の目的であり、今現在、このモロクが陥っている状況の正体だ。 誰一人として、具体的な動機を持った者は居らず、反国王を掲げるテロリストのような主張も無く、ただ“魔法の力”たる「銃」を手に入れた者達が、この社会に如何なる影響を齎すか。 マスク男は全ての人間と国全体を、自らの悪意の為に“実験台”としたのだ。 テロリストから奪った大金等、彼にとっては国外に逃れる為の逃走資金でしかない。 何ら軍事訓練の受けていない、一般市民や、大した数も無い盗賊団達が、この街で戦闘のプロである騎士団をどのように混乱させたか。「銃」で武装し、組織化された集団がどれ程の戦果をあげたか。 これだけの要素があれば、どの国へ逃れたとしても、「銃」を欲しがらぬ者は居ないだろう。 後は…どう始末をつけるかだ。 モンクと女アサシンも、既にマスク男の魂胆には気付いている。 そして既にマスク男の邪悪が実現し、勝鬨をあげるかのように高笑いしているであろう事も知っている。 もう二人は、自分達が負けている事に気付いている。 だが彼らは、このまま黙ってみている気には到底なれない。 マスク男は多くの人間を陥れ過ぎている。 罪無き人間を撒きこみ過ぎている。 それらは全て過去形であり、二人はそれを阻止できなかった。 後は…マスク男に逃げられて大きく負けるか、せめてこの国でマスク男を殺し、小さく負けるか。そのどちらかだ。 ヴィンセントは苦手なネズミに怯えながらも、もはや自分の手ではどうにもならぬ状況を、その結末を見定めるべく、前を行く二人に付いて行く。 マスク男は、自分の手で救ってやる事は叶わない。自から地獄へと至るバカ男を、正しい道に導いてやる事は不可能だ。 だがヴィンセントには、それから途中で逃げ出すようなマネはできない。 後は…それはヴィンセント自身にも分らなかった。 不潔極まりない下水の臭い。 “ゴミクズの住む街”であるモロク、その街の排泄物が垂れ流されるこの下水道は、正にこの世で最も唾棄すべき場所と言えるだろう。 そのような悪臭充満する場所においてさえ、マスク男の嗅覚は異常を抜け目無く嗅ぎ取った。 「石鹸の臭い」 それも、このモロクには相応しからぬ、上品な品物の香りで、立ち止まったマスク男は「ズルリ」と唾液を啜り上げ、泡立つような不快な声で笑う。 「最高だ。最高にエレクトだ。修羅が来るぞ。天使を連れて、地獄の悪鬼を屠りに来るぞ!吐き溜めの決闘だ。全く相応しいじゃないか!」 二人はに驚いた様子だったが、目の前のキチガイの狂態振りから、どうやら招かれざる客が自分達の進行方向に立ち塞がっているであろうを察し、御互いに顔を見合わせた。 マスク男はジャクリーヌから予備の弾丸を受け取り、二人に回り道をして先に行くよう指示する。 「そいじゃぁ、コモドシティで会おうや。俺は少しジャレて行く」 彼らの目的地、ミッドガルド最南西の港町コモドは、海外との流通も盛んだが、その分犯罪率も高く(モロク程では無いにせよ)、戒厳令下の現在においても、不法な密輸入や密入国が後をたたない。 今外国へと亡命するならば、他にそれが可能な街は無い。 だがそれも、上の混乱が鎮圧され、治安部隊の能力が回復してしまってからでは難しくなる。 にも関わらず、マスク男は随分と嬉しそうに鼻歌を刻み、銃の弾丸を入れ替え、ナイフを片手で抜ける位置にずらし、その他諸々、邪道極まりない小道具や凶器を点検していた。 実際にマスク男は性的に興奮していた。 石鹸の香りは間違いなく、あの変態アコライトが使ったモノだし、こんな所に顔を出す以上、余程の事があったのだろうから。 当然、今考えられる“余程の事”と言えば、昨夜出会った、あの僧兵以外考えられない。 「ヒヒヒッ!あの野郎、どんな顔するかなぁ。ひひっ!」 銃の安全装置をカチリと外し、ガスマスクに内蔵されたスコープを暗視に切り替えると、吹き出す笑いを必死に堪えながら、暗闇の中に身を潜めた。 先頭を進んでいたモンクは急に立ち止まり、背後の女アサシンに手で合図した。 女アサシンは直ぐさま熱索ゴーグルを下げ、得物を抜いて構えると、クローキングスーツを作動させて姿を隠し、銃撃にすぐにも応戦できるよう、毒物をし込んだ手裏剣を手にした。 モンクは鉛玉を何個か、腰から下げた巾着状の袋から取り出し、それを指に挟むと、いつでも指弾を放てるように気を集中させる。 その視線の先には、見覚えのある、あの薄汚い黒い帽子が一つ、通路の真中に放置されていた。 女アサシンは周囲を警戒し、モンクはその援護を受けるように、ゆっくりと帽子に近付く。 が、当然それに触れるような無用心なマネはしない。 あのマスク男の事だから、当然抜け目なく陰湿なトラップをしかけているのだろうから。 だがそのまま膠着していては、前のように単なる時間稼ぎのハッタリに嵌ってしまう事になりかねない。 「…周辺に熱源無し」 女アサシンの視界は、生物の体温を捕らえるサーマルヴィジョンに切り替り、細い下水管の上を走りまわるネズミや、その他下等な生物を青白く映し出すが、それとモンクと、後ろで震えているヴィンセント以外には、どんな影も写らなかった。 「ずっとこうしているワケにも、いかないな」 モンクは帽子に向けて、数発指弾を撃ちこんで見る。 万全とは言えないまでも、それでいくらか安全は確認でき、モンクは一歩一歩、決して油断の隙を見せずに身構えて近付いていった。 だが結局、帽子の下から煙が噴出すことも無く、また彼が予想だにしない所から弾丸が飛んで来る事も無く、肩透かしを食らったモンクは、悪態を付きながら汚れた帽子を拾い上げた。 またもハッタリか、はたまた単なる早とちりか… しかし事実は、そのどちらにも当てはまらなかった。 マスク男はゆっくりと、不潔極まりない汚水の流れの中から頭を出し、そのグロテスクなガスマスクの下から汚れた瞳が、囮の帽子を掴みあげるモンクの姿を見つめていた。 腐臭を漂わせるネズミの死体、モロク住民の食べ残し、生活排水、その他諸々、常識的な神経を持つ者なら近付く事も憚る汚れきった汚水の中で、ただ“彼らの驚く顔が見たい”という理由のみで、数分間も待ち続けていたのだ。 全身をドロドロに汚したマスク男のオゾマシイ姿は、熱策ゴーグルにも捉えられることは無く、だから彼が銃を撃ち放つまでは、誰一人それに気付く事はなかった。 マスク男の暗視ゴーグルには、帽子を掴んで苛立たしげに唸るモンクと、クローキングを解いてモンクの肩を叩く女アサシン、そして1番後ろで怯えるヴィンセントが映った。 暗く閉鎖された下水溝内に突然、閃光と轟音が木霊し、人間の感覚を一瞬だが麻痺させるには充分な効果となる。 最初の1、2発はモンクの顔面を掠めて壁面にぶち当たり、その閃光の中に浮かび上がるマスク男の姿に気付いた女アサシンは、銃口の先に居るモンクに飛びかかってその場に押し倒した。 マスク男の放った弾丸の3発目は、モンクを庇う女アサシンの脚に当たり、しかし女アサシンは苦痛に唸りながらも直ぐ様、その姿が映っていた辺りに向けて手裏剣を放つ。 手裏剣は見事に脇腹に突き刺さり、マスク男は胸糞悪い呻き声をあげ、汚水を跳ねながら奥の方へと逃走していった。 「何やってるの!早く追いなさい!」 女アサシンの容態を見ようと起き上がったモンクに対し、彼女は例の容赦無く冷たい口調で言って放つ。 『この様子なら大丈夫だ』 実際女アサシンの負った傷は、歩行できぬまでも命に別状は無く、自ら腰蓑の一部を千切って止血帯にするのを確認したモンクは、逃げたマスク男を追うべく、その場を走り去っていった。 その背中を見ながら、女アサシンはやや呆れたような口調で洩らした。 「全く、世話が焼けるわね…あら?」 ふと、傷の治療を頼もうとヴィンセントの姿を探すが、既に例のアコライトの姿は無く、どうやらモンクより一足先に、あのマスク男を追って駆け出していたようだ。 「…大変なのね、あの子もイロイロと」 暗闇の中に気色の悪い吐息が響く。 はぁはぁと、荒く、まるで興奮したような息を洩らすのは、脇腹の傷を押さえて壁に寄りかかるマスク男だった。 傷口に突き刺さった手裏剣には、刃に刻みが施されており、それを抜くマスク男は激痛に吠えつつも、尚もイヤらしく吐息を吐く。 その吐息はやがて、不吉な笑い声へと変わっていった。 「はぁ、はぁぁ…ハァ…あはははぁ…はぁはははは!」 念の為解毒剤を射ってから、銃に弾を込めなおすマスク男の手は震えていた。 もちろん、恐怖や緊張の為ではなく、性的な興奮からだ。 「はははっ!来るぞ、修羅が来るぞ!俺を殺しに来るぞ!ははは!」 彼の言う修羅の姿は、あのモンクであり、古い友人である大将の姿であり、自分に罰を下さんとする正義のアーキタイプだ。 その正義とは、所謂“善”ではなく、怒りや憎しみと言った、ネガティブな感情を糧とする者だった。 「大将見てるかよ!俺は全然変わってねぇよ!思う存分クソッタレだ!なぁ大将!あの小僧はどっちかなぁ?お前みたいにアマチャンか?それとも…」 物音に気付いたマスク男が、即座にそちらに銃口を向けると、そこには何とも困ったような表情を浮かべるヴィンセントの姿があった。 「吐きだめに天使とくらぁ。神様とやらはどうしてこう…」 「もう黙って傷口みせてください」 ヴィンセントは清潔な包帯を取りだし、それをマスク男の脇腹に巻くと、傷口に手を当ててヒーリングを始める。 マスク男はヴィンセントに理由を聞くようなマネはしない。恐らくは、その理由は彼なりに合点が行くからだ。 だがヴィンセントの方は、そうも行かない。 何故この男はこんなに腐りきっているのか。何故この上大罪を重ねるのか。 「大将の目的って何ですか?こんな事に意味があるんですか?」 だがマスク男は、その腕を酷く捻り上げると、ヴィンセントの小柄な身体を、黒装束に包まれたやせ細ったグロテスクな身体で覆い隠すように壁へおし付けると 不細工極まりないガスマスクを外してみせ、その下に隠れていた、頬の抉れた不気味な口元を曝け出す。 口に溜まっていた唾液が、ヴィンセントの足元にビタビタと滴り、彼女は思わず「ひぃっ」と小さく悲鳴をあげる。 「どっかの偉い人が言った言葉だ。『世の悪党と聖人の数は等しい』ってな。それがこの世の決まりなのさ。偉大で慈悲深く、大金持ちでサディストな誰かさんが御造りになったのさ。だから、セント・ヴィンセント…お前は“聖人”にでもなれ」 「…だから大将は、悪人になるっていうんですか!」 遂に堪忍ならず、ヴィンセントは裏返った泣き声で怒鳴った。 「それじゃまるで…ボクの為にやってるって言うんですか!?何様のつもりですか!バカにしないで下さい!」 マスク男は尚も汚らしい声でゲラゲラと笑う。その声は遠くまで響き、モンクをその場に導くには充分過ぎる大きさだった。 「その子から離れろ」 後ろから響くドスの聞いた声に、マスク男は益々抉れた頬を吊り上げ、小声でヴィンセントに 「修羅が来たぞ」と洩らす。 ヴィンセントは慌てた様子でマスク男とモンクの間に割って入り、アタフタと両手を振って喚き散した。 「ダメですよダメダメダメ!あの、その何だ?この人は悪い人…だけど、えっと…とにかく殺しちゃだ…って、え?」 しかしヴィンセントの言葉は、背後から伸びてきた黒く猥褻に節くれた手に握られるナイフの刃によって遮られた。 冷たい刃はヴィンセントの首、その白い肌に密着し、彼女を震えあがらせる。 「もう何人も死なせてるんだ。こんなクソガキ一人、今更どうって事ねぇよな?」 明らかに笑気の篭ったマスク男の不真面目な言葉は、モンクに拳を血が出るほど握り締めさせ、刃を軋ませ、血管を浮かび上がらせると同時に又、絶望させもした。 盾にされてキャァキャァと喚くヴィンセントの姿に、モンクの記憶に残る様々な人物の姿が重なってしまい、そしてモンク自身の手には、彼らを救う術が残っていないのだ。 「手前は誰も助けられねぇ。手前自身すらな。だからもう考えるな」 マスク男はそう言うと、ヴィンセントの法衣を襟元から臍の下辺りまで、一気に切り裂く。 そしてその下に巻かれていた包帯に手をかけ、無理矢理引き千切った。 「きゃぁあああ!」 ヴィンセントの黄色い悲鳴が、狭い通路内に響き、続いてモンクの怒号とマスク男の高笑いが響く。 「やめろぉ!」 「ギャハハハ!ビックリしたろ!?笑えるよなぁ!?」 ヴィンセントは必死に、裂かれた衣服の間を腕で覆い、蹲ろうとするが、マスク男はそれを許さなかった。 首元に再びナイフを当て、少し強めにおし付けると、その白い肌に赤い染みが広がり、ヴィンセントは悲痛に悲鳴をあげる。 「ひぃっ!やだっ!やめてよぉ…」 「ほらヴィンセント、聖人にでもなれ、あの坊主を救って見せろ!さもなきゃ、奴は修羅になっちまうぞ?」 実際、モンクの表情からも、彼の精神的な限界が見て取れた。 その表情は怒りを通り越し、悲しみに変わっていた。 頃合を見計らって、マスク男は銃を抜き、震えるヴィンセントの右肩を使って構える。 突然自分の顔の直ぐ横から飛び出した、歪な鉄の塊を凝視し、それが何を意味するかを即座に理解したヴィンセントは、マスク男が引き金を引くより一瞬早く、その腕に噛みつくようにしがみ付き、モンクから銃口の先を逸らそうとした。 マスク男は悪態をつきながらも引き金を絞り、その為銃は、ヴィンセントの頬に密着した状態で発砲された。 耳元で炸裂した轟音の為、ヴィンセントの右耳鼓膜は傷つけられ、同時に、銃のシリンダーとバレルの隙間から吹き出した燃えカスが、彼女の頬を焼いた。 「いやぁぁぁあっ!」 激痛と衝撃に打ち倒され、その場で転げてのたうつヴィンセントの姿を目にし、モンクの思考は完全に停止した。 右耳の聴力が徐々に回復し、頬の焼けるような痛みも収まってきた頃、ヴィンセントは妙な音が小刻みに鳴り響いているのに気付く。 それが、人間が人間をゲンコツで殴りつけている音だと言う事に気付くまで、それほど時間はかからなかった。 視線を上げてみれば、マウントポジションを取ったモンクが、せっせと機械的な動作で、ぐったりして動かないマスク男の顔を、ただ只管に殴り続けていたからだ。 その表情からは、一切の感情が掻き消えており、虚ろとなった目からは、まるで単なる水かのように涙が止めど無く流れ出していた。 マスク男は(既にガスマスクは外れで何処かに吹き飛んでいたので、その呼び方は相応しくないかもしれない)ぐったりと動かず、見にくく潰れた顔は、歯が何本か抜け落ち、その抜け落ちた歯は何処へ行ったかと思えば、等のモンクの振り上げる拳に突き刺さっていた。 モンクが大技を使おうと思えば、即座にマスク男をミンチにする事も出来ただろうが、強い精神集中力を必要とする大技を使用できるような精神状態ではなく、今の彼に出来るのは、こうして子供の喧嘩のように、相手を嬲りつづける事だけだったのだ。 ふと、自分を怯えた様子で見つめる、ヴィンセントの大きく綺麗な左目の瞳(右目は腫れた頬によって塞がっている)に気付き、モンクは自身の傷とマスク男の返り血で真っ赤になった両手を、彼女の方に伸ばし、まるで少年のような邪気の無い声で言った。 「やった、やっつけたんだ。これで、これで許してくれますよね?」 モンクは、ヴィンセントと記憶の中の女性を完全に混同していた。 その様子に益々怯え出したヴィンセントは悲鳴をあげ、尻餅をついたまま後ずさりし、モンクから逃れようとする。 モンクは悲しそうに表情を歪め、弱々しく泣き声を洩らすと、その場に両手を付き、苦しそうに嗚咽して何事か叫び出した。 「何で…どうすれば良いんだ!コイツが、コイツが全部悪いんだ!こいつが居なければ、あの子も生きていられたのに………他に、どうしろって言うんだ!」 『人は怒りではなく、悲しみによって修羅に至る』 猥褻で卑劣で悪辣な思考回路を持つマスク男の脳内、その記憶をつかさどる部分で、ある哲人の言葉が浮かび上がる。 その言葉はマスク男に対し、紛う事の無い一つの欲求…性欲を刺激し、彼の次の行動を決定した。 ようやく脳味噌の指令が神経を通して腕、指先に伝達され、半分下水のドブの中に浸った手は、何か武器になる物が無いかと、汚らしいドブ川の底をさらった。 その手に引っかかったのは、どうやら下水に流されたボロタオルであった。 水をたっぷり吸いこんだボロタオルを掴むと、マスク男は音をたてぬ様、そっと身体を起こし、自分に背を向けて泣きじゃくるモンクに背後から飛びかかった。 突然首に濡れたタオルが絡みつき、モンクはギョッとして立ち上がろうとしたが、濡れたタオルは思いの他強靭に喉を締め上げ、窒息の地獄に喘ぎながら、モンクは背後に引き倒された。 マスク男は狂人のように笑い声をあげ、醜く裂けた口を目一杯吊り上げて、モンクを下水の中に引きずり込む。 先程とは逆に、モンクの上に馬乗りになったマスク男は、下水の底で暴れるモンクの、顔のある辺りに拳を振り下ろしつづけた。 相手が水中に居る以上、しっかりとした打撃を与えることはできないが、それでも呼吸のままならぬモンクを喘がせるには充分過ぎた。 「ぎゃははは!笑えるぜまったくよう!ドイツもコイツも腑抜けやがって!手前も大将と同じだぜ!」 一頻り叫んだ後、マスク男は通路の隅に銃が落ちているのを見つけ、濡れタオルを引っ張ってモンクを水中から引きずり出し、首の拘束を解かぬように、力任せにその身体を下水のヘリに腹ばいの状態で押し付けた。 そして銃を拾うと、その銃口をモンクの後頭部に擦りつけ、撃鉄を上げてから、耳元でネバっぽくイヤらしく囁いた。 「手前が死んだら、あのアマも殺ってやる。殺る前と後に、一発ずつ犯ってやる」 「っっっ!っあぁああああああああああああああああ!」 潰された喉を無理矢理絶叫が通り、モンクは血を吐きつつ咆哮すると、恐ろしい程のバネを弾かせ、マスク男の身体ごと壁面に背中を叩きつけた。 突然の衝撃にマスク男は呼吸が止まり、その場に蹲って胃液を吐き出す。 モンクはその襟首を引っつかみ、壮絶に表情を歪めながら、マスク男の身体を丸ごと中に浮かばせて放り投げた。 マスク男の身体は、レンガの丈夫な壁面を抉るほどの力で叩きつけられ、骨の折れる音と共に、血が赤いトマトのように飛び散り、その場にズルズルと力なく尻餅を付いた。 目は宙を見つめ、だらしなく開いた口元からは、黒い血がドクドクと流れ出した。 そしてその腹部の真中、臍の下辺りからは、背中から貫通した、捻じ曲がった鉄筋の一部が覗いていた。 「………」 「………」 ヴィンセントは何も言わず、何一つ口に出さず、ただその場に両手を付き、ひたひたと涙を流す。 モンクはその肩に触れようとしたが、自分の手が血で穢れている事にようやく気付き、何か恐怖に似た感情を憶え、腕を慌てて引っ込めると、やはり無言のまま、その場を去っていった。 マスク男は、自分の身体が消えている事に気付いた。いや、気付くと言う感覚は正しくは無い。 何故なら彼には、今の状況が瞬時に理解できていたからだ。 そして彼の目の前…自分の身体があった辺りの、前方と呼ばれる方向の、比較的近い距離に、恐ろしく美しい存在が立っているのも、直ぐに理解した。 それが何なのかも、常識として知っているし、人によって女神や死神など、様々な呼び名のある、その存在に対して、何の為に自分の前に存在するのかも、直ぐに理解した。 その“美しい存在”は、言葉ではなく真理としての、ウソも皮肉も世辞も無い、正に心と心だけの会話を始めた。 『冥界か、この世の煉獄か、はたまた、貴様が心入れ替え得るのならば、もう一つの道もあるだろうが、貴様の答えは既に決まっている。私は貴様等より、遥かに全能に近いのだからな』 『俺の望みは…とりあえず、しゃぶってくれや』 常人ならば到底ありえない暴言だが、前にも述べた通り、彼らの会話にウソや世辞や皮肉は存在しない。だからマスク男は、全くの本音を述べただけなのだ。 『選択はなされた。この者を煉獄へ』 “美しい存在”は掻き消え、やがてマスク男は、自分の身体が戻ってくるのを感じた。 人間としての五感の幾つかが戻り、やがて視界も戻ってくる。 目に最初に映ったのは、相変わらず不景気な表情を浮かべるヴィンセントだった。 泣いているわけでも怒っているわけでもなく、どうやら単に呆れているようだ。 その小さな手には、潰れた木の葉が一つ握られている。 『イグドラシルの葉』とは、高額だが瀕死の人間を蘇生させ得る力を持つ、言わば魂の免罪符だ。 ヴィンセントは貴族出身とは言え、この出費は覚悟を有した事だろう。 「ボクの言う事聞かないから、こんな事になるんですよ。これからはボクの言う通りにしてください。そうすれば…」 「殺ったの?」 「……」 モンクは、女アサシンの質問に答える事は無く、壁に寄りかかっている女アサシンの方へ倒れこむ。 女アサシンは拒絶する事もなく、その身体を受けとめ、優しく腕を回した。 モンクは小刻みに、震えるように嗚咽し、男泣きした。 「はぁぐっ!ぅあぁ、あぁぁ…俺は、もうダメだ……俺は、どうなっちまうんだ…あぁぁぁ…」 女アサシンの肩を必死に掴むモンクの手は、血で真っ赤に染まり、どのような修羅場を展開したのか、彼女は容易に想像できた。 そして女アサシンは、そんな彼が怯える理由も理解しているし、泣きじゃくる彼を落ちつかせる方法も知っている。 彼女が、ただ優しい声で 「生きて帰って来たじゃない。作戦終了よ…」 と一言だけ言えば、モンクは気を失い、スヤスヤと、まるで子供のような眠りについてしまう。 腕の中で寝息をたてるモンクは、起きれば泣いている間の事は忘れてしまうのか、一切話はしないし、女アサシンもそれには触れる事はない。 ただ彼女にとっては、モンクがいつもの彼のまま、再び彼女の前に戻ってきてくれれば、それで良かったのだ。 ミッドガルド通信翌朝刊 『モロク市内にて、治安部隊と武装組織との間で戦闘が発生。 双方に多数の死傷者を出したこの惨事は、誘拐されたアコライトの少年少女十数名、及び盗賊団全員の死亡が確認され、最悪の結末となった。 治安部隊は、死者17名、重軽傷者38名という犠牲を出しながらも職務を全うし、殉職した騎士団長ゾーイ・エイクロイドには、名誉ある騎士十字章が贈られる模様。 しかし同時に、投降する盗賊団に対し、騎士団員がリンチを加えたとの証言もあり、今後の調査の対象となりそうだ。 モロクの犯罪発生率、乳児死亡率、年間個人所得額は、十年続けて王国内ワースト1位である』 海風は朝刊を煽り、ジャクリーヌの手からもぎ取っていった。 海原に消える紙片を眺めながら、彼女はコーヒーを両手に戻ってきた相棒に目をやる。 揺れる船の上で、熱いコーヒーをこぼさぬ様、恐る恐るやってきた鍛冶屋の青年は、表情を顰めながら、錬金術師の女に言った。 「畜生め、高いコーヒーだ」 「良いじゃない、お金はあるんだし」 鍛冶屋から受け取ったコーヒーを口に運びながら、ジャクリーヌは素っ気無く答えた。 鍛冶屋は葉巻に火をつけ、二、三度煙を燻らせると、思い出したように囁く。 「結局、大将の奴、来なかったな…どうすんのこれから…」 「…こうすりゃ、いいんじゃないの?」 「って、あぁぁ!?」 銃と弾丸、そしてその図面が入った鞄は、ジャクリーヌの手を離れ、冷たく渦巻く波の中に消えていった。 名残惜しく手を伸ばし、しょんぼりした表情を浮かべる鍛冶屋に対し、ジャクリーヌは言った。 「あのキチガイが居ない以上、アタシ達には過ぎたブツよ…結構いけるじゃない、このコーヒー」 男の横を、小さな影が通り過ぎる。 子供…子供…子供…やせ細った、しかし生きる事に貪欲に目を輝かせた、健全な子供達だった。 男の視線は無言でその姿を追う。 子供達は皆々、手に食器やグラスを持ち、手際良く長テーブルに並べていく。 もちろん、男はそれを見ているだけである。 やがて男の後ろに、金髪の女司祭がやってきた。 “美しい”という言葉がぴったり合う、その修道女の目元、右頬の上辺りには、火傷の後のような傷が薄っすら残っていたが、修道女はそれを隠そうとする素振りも見せなかった。 「シスター・ヴィンセント!食事の準備が出来ました」 孤児の少年が修道女に言う。すると修道女は、随分と元気の良い声で返した。 「では、手を洗って席について下さい!それから御祈りも忘れない事!」 「はぁーい!」 少年が流しに向かうと、修道女は男が座る“車椅子”を押し、彼をテーブルの前まで連れていった。 男は孤児達から「怪人さん」と呼ばれ、恐れられつつも親しまれていた。 その顔は、右頬が完全に抉れ、並びの前歯が軒並み抜け落ちた、だらしなく開かれた口から、いつもダラダラと涎を垂れ流していた。 しかし修道女は、それを恐れる事も汚らわしがる素振りも見せず、清潔なタオルを取ると、涎を拭き取っていった。 その際、修道女は男の前に屈みこみ、細く白く美しい手が男の股間に触れたが、下半身の感覚を完全に失っていた男は、それに反応する事は無く、ただただ自分の顔を拭く美女の顔を、無気力な表情で眺めていた。 「今日は誕生日なんです。大将も少しは嬉しそうにしてくださいよ」 「シスター!御誕生日おめでとうございマース!」 子供達は祈りを済ませ、食事を済ませ、食器を片付け始めたが、男の食は細く、修道女は心配そうに覗き込んだ。 しかし男が頬をつりあげ、ニヤリと笑ったのに気付き、正直健全とは言えないその笑い方に、修道女はやや呆れたような笑みで返した。 「祝ってやろう、シスター・ヴィンセント、今日はお前の日だ」 「ありがとう、大将」 男が両腕を広げ、招いた為、修道女は彼に近付き、その前に屈みこんだ。 男の腕は、麻痺した下半身に反して強靭に鍛えられていた。 男は、修道女や子供達に見つからぬよう、椅子や机を持ち上げ、腕力を保っていたのだ。 だから男は、まるで警戒心を抱いていない修道女の首を、簡単に捕まえる事に成功し、ようやっと異常に気付いた彼女が、彼の手に爪を立てるのも構わず、満身の力でもって、その細い首を締め上げた。 骨の軋む音と共に、みるみる修道女の表情が青ざめていく。 その瞳が大きく見開かれ、涙がポロポロと流れ落ち、男の膝の上に落ちた。 男は、その魚のように開いた唇に口付けし、益々歯をむき出して笑う。 「今日はお前の日だ、セント・ヴィンセント…お前は聖人になる!」 聖人は、死後初めて聖人と呼ばれる。この夜は後に「聖ヴィンセントの日」と呼ばれるようになった。 そして多くの聖人と同じように、その影には紛う事のない悪党が存在した。 終わり。