『忌まわしき者』 私達が探し求めていた場所は、街外れの沼地にあった。 既に建立されてから一世紀以上の年月が過ぎていると思われる木造の廃屋は、あらゆる角 度へと伸びた蔦に覆われ、目前の家屋を支える柱は半ば腐り、今この瞬間に倒壊しても全く 不思議ではなかった。 同行していた部下のカダスは、今私が歩いてきたばかりの小さな丘から、鎧の重みでぬか るみに足を取られながらも、一帯に生い茂る薄を踏み分けてこちらへ向かってくる。 私は強い横風で乱れた髪を抑えながら、ただじっとあの廃屋を見つめていた。 「あの小屋がどうかしましたか、隊長」 「見ろ、この足跡を」 私は彼に顎で地面に深々と残された足跡を示す。 「……これは、人間の物ではありませんね。我々が探している物に間違いありません」 カダスは緊張した面持ちで言葉少なげにそう言うと、唾を飲み込んだ。 彼が緊張するのも無理はない。 今朝、我がプロンテラ騎士団第二方面軍管区長より、私を含む八名の騎士は突如召集され このアルデバラン近辺で目撃された生物の正体を突き止め、状況により捕獲、殲滅せよとの 密命を受けたのだ。 私は正直な所、また住民からの苦情によるモンスター討伐だろう、とタカを括っていたが 目前の足跡は私の騎士としての経験を以ってしても見た事がない、まるでこの世界に存在し てはならない異形の者が残した物のように思える。 そして、それは紛れもなくあの廃屋からここまで歩いてきたのだ。 カダスとて私と同じ心境なのだろう、僅かではあるが声が震えている。 「隊長、あの小屋に踏み込みますか?」 返事の代わりに、私は帯刀していた両手剣を抜くと、彼に本隊への連絡を指示した。 「お前はアルデバランの本隊へ連絡を取って応援を呼べ。ここは私が突入する」 「やめて下さい!隊長に何かあったらどうするんですか!!」 私とて万能ではない。現に知識や経験では抗う事の出来ない何かが、今も確実に私を蝕み 胸の鼓動を早めてはいるが、それ以上に今の彼では未知なる標的に打ち勝つ事など到底不可 能だろう。 部下の命を預かる立場上、軽率な判断などできる筈がない。 「女だからと甘く見るな。お前の連絡が遅れる事で最悪の事態を招くかもしれんのだぞ」 「しかし……」 カダスの表情が困惑に彩られる。 「命令だ、行け!!」 カダスが私の怒号と共に遠く見えるアルデバランの城門へと走り去ると、彼が充分な距離 まで離れたのを確認してから、私はゆっくりと足跡を辿り廃屋へと歩き出した。 沼地を一歩進む度に言いようのない緊張と恐怖が肩に重く圧し掛かり、鎧の軋む音と吹き 荒れる風の音だけが強烈に耳に残ったが、それでも私は一歩、また一歩とゆっくり廃屋へと 近づいて行き、やがて廃屋の玄関前に到達した。 窓から部屋の内部は伺えないかと思ったが、薄汚れて白色に染まった窓は既にその機能を 果たしておらず、朽ち果てたドアの前に立つと胸の鼓動がより一層早くなり、緊張が極度に 達しているのが自分でも容易に理解できた。 「何を恐れる。私には国王に誓った忠誠と騎士団としての誇りがあるではないか」 噴出する恐怖に負けぬよう私は自分に言い聞かせ、腐った木製のドアを足で蹴り飛ばす。 同時に大きな音と共にドアは廃屋の中へと倒れ、床に降り積もった塵と埃を舞い上げた。 「気配がないな……無人なのか?」 薄暗い廃屋の内部は、私が立っている入口こそ外の光に照らされて不気味な姿を晒しては いるが、続く廊下の奥に至っては完全に闇と同化しており、まるでこの廃屋そのものが光を 吸収する化物のような気がしてならない。 それに、僅かに香る百合の花のような甘い香りは何だろうか。 私は、いよいよこの廃屋が尋常ならざる物に思えて、剣を構え神経を前方に集中させた。 見える範囲では長らく人が居た形跡は伺えなかったが、ふと足元を見るとそこだけは明ら かに他とは異なっており、幅一メートル程の緑色の粘膜のような物が、二階へと続く階段か ら点々と続いて埃で白くなった床にハッキリとした道を作っている。 その粘膜を剣ですくって見ると、その中で様々な色の砂のような粒子が星のように輝いて 流動的に蠢いており、先程からの甘い香りの原因がこの緑色の粘膜だと言う事も判明した。 「標的は階上か…」 私は慎重に、得体の知れない何かを求めて朽ちた階段を、一段、また一段と上って行く。 剣を握り締めた手は汗ばみ、息使いがどんどん荒くなる。 ツーハンドクイッケンやオートカウンターは通用するのか。 標的の攻撃力はどれ程だろうか。 階上へと足を進めるに連れ、恐怖と不安が私を支配しようとしたが、なんとかそれを振り 払ってようやく二階へと辿り着いた私は、目の前に広がる無数の粉々に砕け散った破片を見 つけた。 廊下の窓から弱々しく差し込む西日に照らされた破片は、様々な大きさの試験管の残骸ら しく、この施設が何者かによる研究施設だった事を物語っている。 試験管の破片を踏まないよう注意しながら部屋に入ると、部屋の中央には大きな魔方陣が 描かれており、大きな本棚の他には机と椅子以外何もなかった。 私は、本棚に隙間なく整然と並べられた古めかしい本を一冊手にすると、中身を適当にめ くってみたが、魔術師でもない私がその内容を理解できる訳もない。 机の上に散乱していた本も同様に確認してみたが、やはり内容は似たような物だった。 「持ち帰ってゲフェンの魔術師にでも見せてみるか」 手にしていた一冊を鞄に入れようとした時、ふと本の中から何かが落ちた。 拾い上げて見ると、ぼろぼろになった羊皮紙に何か文字が描かれている。 「これは……手紙?」 インクが薄くなっている事から、書かれてから随分と時間が過ぎているらしい。 女性らしき筆跡のその手紙は、他の本と違い私でも読める普通の文字で綴られており、自 分の置かれている状況も忘れ、私はその手紙に目を通してみた。 いつの日かこの手紙を読まれる方へ まず始めに、この手紙を読まれる前に断っておきたい事があります。 私、レン=ドールと夫である偉大なる魔術師ニグラスは、この世界を混沌と 破滅に導く為にあの忌まわしき者を創造したのではありません。 いずれ訪れる錬金術による命の創造が、願わくば人々の栄華と繁栄に役立てる 事を信じて、純然たる研究を続けた結果の産物である事を知って頂きたく思います。 もはや私の体の大半は失われ、こうして手紙が書けるのもこれが最後になるでしょう。 ですが、例え私がこの世界から消え去ったとしても、私達の創造した忌まわしき者は 飢えと渇きに苛まされながら永遠に闇を彷徨い続けます。 あなたがこの手紙を読まれて、私達を哀れだと嘆いて下さるのなら、お願いがあります。 どうかあなたの手で、あの忌まわしき者を葬って下さい。 その為に私は、あなたに伝える事のできる全てを、この手紙に託します。 事の始まりは、あるきっかけで手に入れた一冊の本でした。 私達夫婦は元々、ゲフェンの街でグリモア(魔術書)を取り扱う店を営んでいましたが、 強い雨が降るある日、一人の男が私達の店を訪れたのです。 その男は全身をターバンで覆っており、顔すらも満足に伺う事はできませんでしたが、 雨に打たれて濡れた体を拭こうともせずに、懐にしまっていた一冊のグリモアを主人に 差し出しました。 男のまるで魚のような体臭と、呼吸の度に大きく揺れる肩を見て私は不気味に思い、 夫に黒魔術には関わるべきではないと進言しましたが、夫は手にした本を凝視したまま 動かず暫く間を置いてからようやく一言、これは禁断の写本だと言ったのです。 人間の皮で装丁されたその本は、中の文字が血で綴られており、表紙には剥がされた 爪がびっしりと鱗のように覆われていました。 すぐに夫は、店の奥から持ってきた古い香壷を男に手渡し、何やら聞いた事のない言葉を 何度も繰り返すと、それを聞いた男は喉から地響きのような低い声を上げて、 また雨の中へ消えて行ったのです。 それからの私達は、恐らく他の人間には奇異に写った事でしょう。 店にあったグリモアを全て売り払い、この最果ての荒地に私達の新たな家を建てました。 夫はゲフェンから遠く離れたこの地であれば、誰の目も気にする事なくあの禁断の写本に 書かれた事を実践できると考えたからです。 何の職業にも就いていなかった私は夫に言われるがまま、錬金術について学びました。 不思議な物で、ただ夫の役に立ちたい一心で始めた錬金術もいつしか、私にとっては 生きがいとなり、夫と二人でますます禁断の写本に記された、恐らくはこの世界の 魔術師が百年かけても得られないような様々な内容に魅入られたのです。 異界の者を召喚する方法、時間軸を自在に往来する方法、空に輝く星々へ旅する方法、 物質の構成元素を瞬時に組替える方法など、そのどれもが素晴らしい物でしたが、 その中でも特にホムンクルスと呼ばれる命の創造に私達は興味を惹かれました。 そしてゲフェンを出て二年、私達は遂にホムンクルスを創造する事に成功したのです。 しかし私は、ようやくそこで気付きました。 禁断の写本がもたらす命は、やはりこの世に存在してはならないのだと。 全長二メートル、幅一メートルの忌まわしき者は、非常に高度な知能を持ち、あらゆる 物理法則も魔法も聞かない恐るべき生命体でした。 忌まわしき者は、培養していた試験管から飛び出すと、その口から禍々しい緑色の 液体を放ち、夫の体を一瞬にして腐食させると、覆い被さるようにして夫の体を 音を立てて貪り出しました。 恐らくあの液体は、細胞の死滅速度を極端に早める力があるのでしょう。 私は恐ろしくなって手当たり次第に手元にあった塩酸の瓶や炎を噴き上げる瓶を 投げつけてみましたが、そのどれも効力はありませんでした。 やがて夫の骨をも喰い尽くした忌まわしき者は、次にこちらへ頭をもたげると 私に向かって緑の液体を放ったのです。 咄嗟に用意していたアンティペイメントを飲む事で痛みこそ感じませんでしたが、 腰から下の皮膚はみるみる紫色に変わり、私は崩れ落ちるようにして床に倒れ込んで しまいました。 改めて下半身を見ると膝から骨が飛び出しており、下腹部からは見た事もなかった 私自身の内臓がだらしなく床に流れ落ちていたのです。 恐怖のあまり声も出せないでいると、今度は左肩に衝撃を感じました。 忌まわしき者が放った液体は、私の左肩と手を腐食させたのです。 足元で微かに感じる自分の体が捕食されて行く感覚に耐え切れずに、私は残った右手で 必死に部屋から出ようと試みました。 紐が切れるような音はきっと私の内臓が切れている音なのだな、と思いましたが それでも力を振り絞り、何とか忌まわしき者から逃れて、私は今この部屋にいます。 もう時間がありません。 部屋の外で忌まわしき者が、夫の声で私の名前を呼んでいます。 どうやらあの恐るべき生命体は、捕食した獲物の知性や遺伝子を取り込んで自分自身の 物にする能力があるようです。 最後に、この手紙を禁断の写本『ルルイエ異本』に挟んで机の上に投げ置きます。 あなたが慈悲深い人であるならば、忌まわしき者を葬った後に、このグリモアを 焚書して頂ければと思います。 あなたに大いなる神の加護があらん事を。 レン=ドール 手紙を読み終えた私の手は震え、額には汗が流れ落ちていた。 何と言う事だろう。 ここで起きた惨劇の主人公は、剣も魔法も通用しない恐るべき異界の創造物だったのだ。 忌まわしき者を私達だけで倒す事など、果たして出来るのだろうか。 そう考えると、急にこの場所に私だけがいる事に恐怖を覚える。 その時、階段を上ってくる鎧の音が私の耳に入った。 きっとカダスが本隊の連中を連れて来たのだろう。 「遅かったな、待ち侘びたぞ!」 張り詰めていた緊張が一気に解け、安堵が私を饒舌にさせる。 だが、返事はない。 「どうした、カダス?」 鎧の音がゆっくりとこの部屋へと近づいてくる。 「……カダスなのか?」 やがて扉の前で、立ち止まる。 「扉を開けて頂けませんか、隊長」 確かに声の主はカダスだが、その声に抑揚はなく彼は力の限り扉を叩き始めた。 ある恐ろしい想像が私の脳裏をよぎり、背筋に緊張が走る。 そして今、それは確信へと変わった! 何だ!このむせるような百合の甘い香りは!! あの扉の下から流れてくる緑色の液体は!! 《END》