グラストヘイム古城はミッドガルドでも一、二を争うほどに危険な場所である。  大陸の最西部に位置するこの古城は千年前の巨人族との戦争で廃墟になった後に放置されたという曰くつきの建物で、当時非業の死を遂げた戦士たちの亡霊や逃げそこなった人々たちの怨霊が渦巻き、その邪気が強力なモンスターを引き寄せる。  何人もの腕自慢の冒険者――その中には自称凄腕だけでなく、名の知られた者も含まれる――が攻略に挑んだが、還って来た者はその中の半分にも満たない。  その帰還者も一人の例外もなくボロボロになって深い傷を負っていた。彼ら口を揃えてこう言った『命が惜しかったら彼の地には近づくな』と。  その警告にもかかわらず、命知らずの戦士たちはこぞってここに押し寄せた。超一流の面々がことごとく跳ね返された難関を突破すれば、その名声は不動のものになるからだ。  もちろん、半端な気持ちでいたものは全員が行方知れずになった。  その無念が闇を呼び、グラストヘイム古城は更に危険を増した。  危険が増したからこそ人が集まる結果となった。  その内の何割かはモンスターたちの滋養となり、何割かは闇の眷属へと堕した。結果古城の死臭は否がおうにも強くなった。  現在では、滅多な事ではここを訪れるものなどいなくなったのだった。  それ程に危険な場所に、あるパーティーが探索に赴いていた。  うら若い女性だけで構成されたこのチームは大陸中に名を馳せた最強クラスの冒険者集団。  西へ行けば行くほど危険度を増すゲフェン平原をピクニック気分で乗り越え、世にも恐ろしいモンスターが群れを成して闊歩するグラストヘイム古城まで到達した実力はその名に恥じない。  彼女たちの快進撃は古城内部に突入しても衰えなかった。  さすがに足取りは遅くなり、いくつも手傷を受けたが、まだまだ十分に余力を残しながら『最も危険なところの最も危険なところ』と恐れられる二階へと足を踏み入れた。 「やっぱり噂されるだけあって手強いわね」 「そうね……。でも、今の私たちの力なら手に負えないわけじゃないじゃない。このまま探検を続けましょう」  メンバーの中で前衛を勤めていた剣士に周囲の様子を窺っていたウィザードが反応した。  剣士とは言ってもこの地に来るだけあって普通の剣士ではない。賢者の都市ジュノーのセージキャッスルの下層にある迷宮の奥で神話にのみ登場する伝説の存在、ヴァルキリーにその実力を認められ、その力のままに新たな生を歩むことを許された女性なのだ。 「少しでも死してなお辱められる魂を開放できればよいのですが……」 「でも、こんだけ数が多いと厳しいよね。ミイラ取りがミイラになっちゃったら笑い事にもなんないし」  生真面目な神の僕であるプリーストの呟きに、軽い調子でハンターが混ぜっ返した。  流石に大陸有数の実力者。話しながらもまったく警戒を緩めない。 「きゃあああああっ!!」  絹を引き裂くような悲鳴が不気味に静まり返っていたグラストハイム古城に響き渡った。  四人はお互いわずかに視線を交わしただけで頷きあって走り出した。  今にも崩れ落ちそうな回廊を疾駆した彼女たちの目の前に広がった大広間は紅く血に染まっていた。  部屋の中央には、角が生えた馬ズラをした禍々しく巨大な怪物の姿だった。  褐色の肌に生えた白い剛毛、鋼線を束ねあげたような太い腕に握られた血が滴り落ちる大鎌。違うことなく悪魔系最上級モンスター、バフォメットだ。  低く呻くバフォメットの周りには何組かのパーティが輪を作っている。 「おのれぇっ!!」  身構えていたうちの一人、銀の鎧に身を包んだクルセイダーが盾を構えながら斬りかかる。  当たればそこらの怪物なら一撃で両断される一撃。だが、それより遥かに早く振るわれた大鎌は機械のごとき精密さでクルセイダーの首を刎ね飛ばしていた。  ここは大陸有数の難関、グラストヘイム古城。その二階にまで足を踏み入れる冒険者が弱いはずはない。そう、弱いはずはないのだ。  だが、その弱いはずはない男が繰り出した一撃でさえ、このバケモノに触れることすら適わなかった。  一瞬遅れて音を立てて二メートルも吹き上がった血飛沫が、バフォメットを取り囲んでいた戦士たちの硬直を解き放った。  そしてそれは――同時に、大虐殺の幕開けでもあった。  槍をしごいた騎士と短剣を構えたアサシンの二人が連携して襲い掛かった。  迎え撃つバフォメットはニタリと嘲笑うと、大上段に振り上げた鎌がうなりをあげて突撃を仕掛けた騎士の頭を捉えた。  硬い頭蓋骨を突き破り、脳漿をブチ巻けながらその鎌は騎士の体を二つに裂いていく。骨と筋肉のつながりを絶たれた右半身と左半身は血流に押し出されて左右に倒れていった。 「カールっ!」  一撃で黄泉の門をくぐった恋人に視線を向けてしまったアサシンは大木をも蹴倒す蹄の蹴りを顔面に受けてしまう。  ゴキリ、とくもぐった音が響く。首がいってしまったのだ。もう助からない。形のよかった顔は無残に陥没して半ばからへし折れた歯がそこら中で跳ねる。 「接近したらダメだっ! 魔法や弓で攻撃しろッ!!」  悲鳴じみた指示に打たれたわけではないが、ハンターが前に出て弓を引く。 「うそ……」  バフォメットは避けようともしない。避ける必要がないからだ。  急所を狙ったはずの三本の矢は射止めるどころか刺さりもせずにポトリと床に落ちる。信じられない防御力だ。  茫然自失としたハンターに二人分の血を吸った鎌が振るわれた。次の瞬間、彼女の瞳にくるくると回る二本の腕が映る。 「え、あ、あ、い、いやあああああ゛あ゛あ゛ッ!!」  鋼鉄の凶器は弓ごと彼女の両腕を斬り飛ばしていたのだ。その認識が彼女をパニックへと追い込んだ。  細身の体が仰け反って、肘から先がない両腕が天に突き出される。ブシュゥッっと紅いものが噴出して彼女の白い服を塗り替えていく。 「そんなッ! は、早く回復を……」  勿論この悪魔がそんなマネを許すはずがない。ブオンと何もないところで鎌を一閃。  ヒールを唱えるためにメイスを掲げたプリーストは突然どん、と腹部に衝撃を受けた。 「かはっ……え?」  喉を競りあがった熱いものがぶちまけられて真紅の薔薇を描いた。  恐る恐る視線を下げると、黒い修道服に包まれた脇腹にぎらつく刃物が見えている。  彼女が事態を飲み込むより早く、大量に呼び出されたバフォメットジュニアが身の丈ほどもある鎌を掲げて殺到した。  ふくよかに膨らんだ胸に、細くくびれたウエストに、程よく肉のついたお尻に、スリットから覗く股に、ガーターストッキングに包まれた太腿に、ありとあらゆる場所に鋭い刃が突き刺さる。 「い、ぎ、ぎあああがあっ!! い、いたっ……痛いぃいいぃ」  回復の要であるプリーストの彼女は体だけでなく心も串刺しにされてしまった。しかし、そんなことで容赦するはずもなく、もう一匹のバフォジュニアが喉笛に鎌を突き立てた。 「…………ッ! ……ッ! ……………………ッ!!」  激痛で涙をこぼす目が大きく見開かれるが、それは何の抵抗にもならない。声帯を断ち切られて、彼女は声を失った。  次に犠牲になったのは先にバフォメットと戦っていたウィザードとアーチャーだった。  次々と絶望を振り撒く魔人を止めるべく、強力な魔法を詠唱するウィザード。そして彼女を守ろうと必死に矢をばらまいて足止めするアーチャー。  先につかまったのは危険の大きい囮役のアーチャーだった。間合いを一気に詰めてきたバフォメットに反応しきれず、人間では持ち上げることすらできない大鎌を振り回す腕に足首を掴まれて逆さに吊るされてしまう。  こうなると無残なのはウィザードだった。  魔法の詠唱で完全に無防備になっている女体をさらけ出される事になるのだから。  片腕での攻撃だが、元々防御力と体力に劣り防ぐことも避けることもできない彼女にとってはどうしようもない。  薄布で守られているだけの背中から骨と脊髄を通って胃を貫通して腹を破った鎌の先端からハラワタが落ちる。 「うぁ……うああぁ…………ヒィッ、! あががぁぁっ!」  大鎌が上を向き、仰向けにひっくり返されたウィザードはあまりの痛みに失神してしまう。そのたびにバフォメットは鎌をゆすって彼女に意識を失うという幸福を許さなかった。 「くっ……このおっ! 離しなさいよっ!」  宙吊りにされながらもまだ闘志を失わないアーチャーに冷ややかな視線――彼女にはそう思えた――を浴びせると豪腕をふるって石造りの床に叩きつける。まるで、捕まえた獲物を弱らせるように。 「ぐ……あっ。うあああああっ、がはっ! ……う、ううぅぅ。きゃああああっ、あぐぅっ! …………はっ、あ、はっ」  人にありえざる膂力の前ではただでさえ軽い彼女の体は人形も同然だった。何度も何度も叩きつけられ、血がダンスを踊り、骨が音楽を鳴らす。再び吊るし上げられる体勢に戻ったときには四肢が全てありえない方向を向いてた。  弱りきった彼女と死神の視線が交錯する。ついと視線を逸らしたバフォメットが見つめる先は地獄の拷問を味わわされているウィザード。彼女のお腹にはまだ人を二、三人突き立てられそうな突端。 「ちょ…………ま、まさか……や、やめ、やめてっ! お願いやめてぇっ! そんな……それは、し、死んじゃうっ!! そんなことされたら死んじゃうっ!」  ひときわ高く持ち上げられた彼女の背中にずぶずぶと鋼の塊が潜っていく。 「ぎゃああああああっ! ……いぎゃああああああっ!! やめっ! やだ、やだあああっ!!」 「はぐっ……ぐ、ゲハッ! や、やめ……やめてぇ……ゆす、ゆす、ゆすらないでぇ…………」  絶叫と懇願。百舌の早贄になった二人の心は……完全に砕かれた。  そして、孤軍奮闘していた剣士にも終焉がやってきた。  別のチームのアコライトの少女――彼女から見るとまだまだ未熟だ。恐らく誘われてついてきたのだろう。を庇いながらバフォジュニアを確実に仕留めていった。  無残に嬲り殺しにされていく仲間のもとに今すぐにでも駆けつけたかったが、一匹一匹にまったく手が抜けない。背中を見せたらあっという間にこちらが息の根を止められてしまう。  もう何体目か数えるのも億劫になるほどに斬りまくっていた彼女だが、絡みつくような殺気にその場を飛びのいた。  薙ぎ払われたバフォメットの一撃が、逃げ遅れたジュニアもろとも空間に溝を作る。戦乙女に見出された彼女でなければ間違いなく上半身と下半身に分断されるハメになっていただろう。 「くうっ」  唇を噛み締め、攻撃後の隙を突いた斬撃。見事に胴体に吸い込まれた剣が紅い筋を描く。 (そんな……浅い!?)  彼女にとっては正に必殺のタイミング。確実にみんなの仇を討つはずだった完璧な攻撃だった。  そんな戸惑いを意に介さずバフォメットは腕を振るう。掲げられた剣は寸でのところで致命となる反撃を防いでいた。  が、基本的な力に差がありすぎた。  跳ね返そうとどんなに力を込めても、馬ズラの悪魔は『それがお前の全力か?』と少しばかり強い力で押し付けてくる。 「なぜ……なぜ、こんなにも押されるの……? ! ま、まさか……」  まことしやかに囁かれてる話だが、悪魔の中には人間の苦しみや絶望を糧としてその力を増強するものがいるという。  もしそれが本当だとしたら、もしこいつがそいつだとしたら。  彼女の仲間のウィザードや別のチームのアーチャーがまだ殺されていない理由は? そもそもこれだけの力を持っているのだからハンターの両腕を斬り落とすだけでなく命さえ奪えたはずでは? よくよく見ればプリーストも喉を潰された以上の責めは受けていない。 「……ッ! 貴女、早く逃げなさい!」  これは到底勝ち目がない。仲間の支援がなければ互角にさえ戦えぬ相手。自分ひとりではいつまでも持ちこたえられない。せめて一人でも逃がそうとしたのだが……。 「た、助け……助けてぇ…………」  もう、彼女は五匹のバフォジュニアによる陵辱劇の舞台に引きずり出されていた。 「そん、な……」  力比べで悲鳴をあげていた腕から、いや、疲れきった全身から戦おう抵抗しようとする気力が抜けていく。  『抵抗は仕舞いか。ならばお前にも絶望を与えてやろう』  キィンと容易く剣を弾き飛ばした悪鬼の巨大な手が彼女の視界を奪って頭を鷲づかみにする。 「うあああああっ!!」  心を折られた彼女を握りつぶそうと力が入る。ばたばたともがいて、指を外そうと必死に足掻くがそれは障害にすらならない。腹の底からの絶叫も大きな掌に口をふさがれ殆ど外に漏れなかった。  ぎしりという音がみしりに変わり、ついにはめきゃりと響いた。 「ぎゃああああああああっ!!」  最後に魂切る悲鳴をあげて、彼女は意識を手放した。  全ての力を失った肢体だけが、未練がましく痙攣していた。  グラストヘイム古城に今日も絶望の悲鳴が響く。  グラストヘイム古城――そは絶望の代名詞……