憎い・・・あの女が憎い・・・。 低く、暗い音が響く。 それは獣の唸り声の様で。 それは落雷の前兆の様で。 それは亡者のうめきの様で。 小さく、だが強く、辺りに響き渡る。 絶対に許さない。 いつか、必ず復讐を。 私と、同じ目に。  「・・・どうしよう、これ」 久方ぶりのカート整理をしていた私の手には、隅の方から発見された薄汚れたミルクの瓶が握られている。 見てすぐに思い出したのだが、これは私が商人になってから初めて露店に並べたミルクだ。 あの頃は商売の事なんて全然わからなくて、とんでもない値段で並べてたっけ。 当然売れるはずもなく、まともに商売できる様になった頃には賞味期限って何?という素敵な状況になっていた。 というわけで処分に困ったそれはカートに放置され、存在を忘れ去られた挙句今に至るという曰く付きの代物である。 軽く振ってみる・・・ぺしょぺしょという水っぽい音と共に固形物が動くような感触だ。 最早ミルクというよりヨーグルトに近い。 飲めたりしないか、という希望的観測は今木っ端微塵に砕かれた、元より小さな希望ではあったのだが。 ・・・待てよ? ヨーグルト? 使えるかも。  露店を巡っているとおかしな商人を沢山見かける。 例えば、そう、目の前にいるスピングラスに付けヒゲの女商人みたいな。 「ヨーグルト、入荷しました・・・?」 ヨーグルトと言うのはミルクを原料にし、特別な製法で作られる食べ物らしい。 が、ルーンミッドガッツ王国にはその製法が伝わっておらず滅多に見かける事はない。 珍しい物を見つけて興味をそそられるが、いかんせん店主が胡散臭過ぎて話しかける気にならない。 「私の事・・・胡散臭い、と思いましたね?お姉さん」 突然心を読まれたのかと一瞬ドキッとした。 が、冷静になって考えると誰から見ても胡散臭いのは明らかだ。 多分、わかっていてこんな恰好をしているのだろう・・・メリットがあるかどうかは知らないけど。 「ヨーグルトに興味がありますか?  お安くしときますよぉ〜」 「遠慮しとくわ、ヨーグルトってレア物だし高いんでしょ?  私あんまりお金ないの、残念だけどまた今度ね」 口ではそう言ったが、実のところこういう怪しい女とお喋りしたくないだけだ。 ・・・お金がないのは本当だけど、悲しい事に。 いいのだ、私が憧れた義賊は貧乏人の味方。 今はまだシーフだけど、立派な義賊は貧乏の辛さを知らなければならない。 この経験は立派な義賊になるための通過しなければならない道なのだ、と信じている。 だけど、今すぐ立派な義賊様にお金を恵んで欲しいとか思うくらいはいいじゃない。 「今なら大特価の80ゼニーですけど・・・それでも?」 ・・・へ?80ゼニー? そんなにお安く、ヨーグルトが手に入る? いや、でも詐欺かもしれない。 普通のミルクにちょっと味付けしただけの物かも。 でもでも、80ゼニーだし・・・騙されても損害は少ないよね? あぁぁ、でもでもでもっ! と、心の中で葛藤を繰り広げている私の手にはしっかりとヨーグルトの入った瓶が握られていたわけで。  「日頃頑張って、更に今日物凄く頑張った自分へのご褒美タァーイムッ!」 狩の終わりに、嬉々としてヨーグルトの瓶を取り出す私。 冷静になって考えると、ちょっとはしゃぎ過ぎた。 狩場の砂漠で人が少ないとは言え、他の冒険者の姿が全く見られないわけではない。 見られたかもと思われると、ちょっと恥ずかしい。 でもやっぱり嬉しいじゃない。 「さて、それじゃあ早速頂きますっ」 この時私の頭には最初に考えていた『詐欺』だとか『偽物』だとかいう事は全部抜け落ちていた。 もっと冷静だったなら、あんな事にはならなかったのに。  「臭い・・・」 蓋を空けた私の第一声がこれだ。 暑い砂漠で駄目になってしまったのかと一瞬焦る。 が、ヨーグルトは『ハッコウ』とか言って特殊な腐らせ方をするだとか聞いた記憶がある。 よくは知らないがこれが普通なのだろう、ちょっと臭いけど味は良いに違いない。 フルーツにもそういうのがあるんだし、大丈夫だ。 そう自分に言い聞かせて一気に口の中へ放りこんだ。 表現し難い味が口の中一杯に広がる。 無理に表現すると苦甘酸っぱ辛い。 要するに不味い。 「うう・・・気分悪ぅー・・・うぷっ」 どろどろとしたヨーグルトが舌や喉の奥に絡みついていつまでも取れない。 不快感が増し、吐き気を催す。 とりあえず持っていたポーションで口の中を濯いだが気分はまだ悪い。 仕方なく、暫くその場で休憩を取る事にした。 異変に気付いたのは、その少し後の事だった。  どこからともなくゴロゴロと音がした。 ふと天を仰ぐと暗雲が立ち込め、今にも嵐が吹き荒れそうだ。 「ぼちぼち帰らないと危ないなぁ」 そう呟き、苛立たしげにヨーグルトの瓶を投げ捨てる。 二度と飲むもんかと心の中で毒づいてからまだ気分の悪く重たい体を起こす。 と、またゴロゴロという音が聞こえた。 さっき聞いた時も感じていたのだが何だろう、妙な違和感がある。 とんでもなく嫌な予感がする。 シーフとして修行を積んだ私の危険に対する勘はよく当たる。 ゴロゴロ 耳を済ませ。 ゴロゴロ 集中しろ。 ゴロゴロゴロ ・・・。 私のお腹の音じゃないか。 という事はさっきのは腐った牛乳で、私はそれをヨーグルトと騙されて買わされた。 全部の線が繋がった、私ってば名探偵? これにて一見落着? これからが問題なんだってば。  人間と言うのは結構適当な物で。 自覚するまでちっとも痛くない怪我が、傷口を見た途端痛んでくるなんてよくある話だ。 今の私がそれだ。 「うぅぅ、ちょっとこれは洒落にならないかもしれない」 本当に痛い。 ただ痛いだけなら、これくらいの痛みなら我慢し、嵐の前に街へ帰る事は可能だ。 問題は・・・ 「トイレ行きたいぃ・・・」 これだ。 この年齢になって、だ。 『狩場から帰る途中に腹痛の余り漏らして帰りました』 勘弁して欲しい。 便意を堪えながらでは速度が遅く嵐までに帰れない。 嵐までに帰れるよう急げば便意を堪えられない。 四面楚歌・絶体絶命。 なんかそんな言葉が頭をよぎるんですけど。 それもこれも全部あの女のせいだ。 変な装備つけて、腐った牛乳をヨーグルトだなんて言って買わせて。 後から瓶をよく見たら品質保持期限が年単位で古かった事からトリックはバレバレなのだ。 絶対・・・絶対復讐してやるぅぅぅ! まぁ、まず街に帰らないことにはどうしようもないのだけど。 結局今の私にはギリギリまで速度をあげて、帰る前に嵐が来ない事を祈るしか出来ない。 こんな時、蝶の羽をケチって買わない自分の性分を呪いたくなる。 「はぁ、痛い・・・急がないといけないけど痛い・・・」 言っていても仕方がない、私はとぼとぼと街に向けて歩きだした。  案の定間に合わなかった。 お腹が豪雨によって冷やされる上、薄手の服の上から大粒の雨が刺激を与えてくる。 更に強い風によって速度はダウン・・・いつになったら街に帰れるのだろうか。 下着までずぶ濡れな事よりお腹への刺激の方が気になるという自分の状況に涙が・・・。 こんなに土砂降りなら、人もいないし・・・この辺りで楽に――― 一瞬凄い駄目な考えした気がする。 段々と頭がおかしくなってきたみたい、なんかもう私駄目かも。 で、こんなに追いこまれた原因を思い出してまた涙。 なんだか生きる気力までなくなってきた・・・ そう、きっと私はここで息絶えるんだ。 晴れてから街を出てきた人達が私の遺体とその周りに散らばる汚物を見て――― 「何やってんの、あんた」 一気に現実に引き戻された。 というかなんでこんな嵐の中にいるんだこのブラックスミスのお姉さんは。 ・・・危うく物凄い恥かくとこだったなぁ、私。 「いえ、ちょっと・・・」 正直に答えるのもあれなので適当にごまかしておく。 「ふーん、まぁなんでもいいけど。  ところでちょっと手伝ってくれる?カートの中の物飛んでっちゃってさぁ」  「ところでさ、あんた蝶の羽持ってないの?」 「はい?」 残った気力を振り絞って手伝いながら、また絶望的な妄想の世界に浸っていた私はその質問の意図が掴めなかった。 「こんな嵐の中で歩いてるからさ、持ってないのかと思って。  そんなに金持ってないの?今時の冒険者は、どんな貧乏人でも蝶の羽くらい持ってくよ」 持っていかないのは歩くのが趣味っていう変な奴か、嵐の中で揉みくちゃにされたいって変態だけ―――らしい。 聞いてて心まで痛くなってきた。 別にマゾでもないし歩くのは実は嫌い、ただ私はドケチってだけ。 なのに変態と同列に見られてるのかもと思うと、今の状況も相成って鬱病になりそうだ。 腐った牛乳騙されて買ったのにドケチとはこれいかに。 「ほれ、やるよ」 片付けが終わったところで蝶の羽を手渡された。 正直今は何貰っても嬉しくない、そんな事より早く街に帰りたい・・・ってあれ。 「あんた調子悪かったんだろ?顔色悪いの暗くて気付かなくてさ。  手伝わせてごめんなっ、お礼っちゃなんだけどそれ使って早く帰りな」 ・・・姉御って呼ばせてください、一生ついていきます。 街について最初に行ったのは、 冷えた体を温めるためのお風呂でも、 疲れた体を癒す自室でもなく、 トイレだったのは言うまでも無い。  「ヨーグルト、大特価の80ゼニーですよぉ〜」 「じゃあ・・・貰おうかなぁ」 上手い商売を見つけたものだ。 古い牛乳を無料で回収し、しばらく放置しておけば偽ヨーグルトの完成。 ばれた時のために装備と場所をころころと変えて、今では結構な儲けがでている。 「お久しぶりぃー」 どきっ。 「お、お久しぶりですお客さーん」 やばぁ・・・このシーフ妙に笑顔なんだけど・・・。 え、もしかして私逆襲される? 殺されたりー、しないよね、流石にそこまでは。 でもやっぱ痛い目は覚悟しないと駄目かなぁ・・・やだなぁ・・・。 「ヨーグルト、美味しかったよ〜。  いや、80ゼニーであれ程とは・・・感動しちゃったわぁ」 へ? 拍子抜けした。 あれが美味しかった?そんなわけない。 腐った牛乳が美味しいわけはないのに、この女ってば何を言ってるのだろう? ・・・もしかして、美味しい?本当にヨーグルトみたいな味になってる? 「ねぇ、また一つ貰える?」 「あっ、あぁ、いいですよー、どうぞー」 瓶を手渡し代金を受け取る。 嬉しそうに瓶を振りながらスキップで去っていくのを見送った・・・なんというか、あそこまで嬉しそうだと不気味だ。 本当に・・・そんなに美味しいのかな? よし、味見してみよ。 瓶の蓋を空けると、むわっと悪臭が漂ってくる。 正直美味しそうとは思えない・・・でも味はいいのかもしれないし。 怖いからちょっとだけ、そう、ちょっとだけ。 舌の先で味見・・・ 「がばっといけ!がばっとぉ!!」 と、帰ったと思っていたあの女が飛び出してきて私の持ってる瓶を逆さにして私の口に突っ込んだ。 「うぶっ・・・うえっ、うえぇぇぇぇっ!!」 まずいまずいまずいっ、まずい!! 口の中一杯に広がる腐敗臭、余りの気持ち悪さに目の前が一瞬真っ暗になった。 吐き気がこみ上げてくる。 「何よ、全然美味しくなんてな―――」 「はい、もう一本」 さっき買っていった物と思しきそれを口に突っ込まれる。 どろどろとしたジェル状の白濁した物質が再び喉の奥を通過する。 余りの気持ち悪さに耐えきれず嘔吐する。 「どう?反省した?」 「うぇっ、うえぇっ・・・は、反省しましたから・・・もうやらないから許してくださ―――」 「と、その前にゲストとして被害者の皆さんに来て頂きましたー」 合図とともに人が集まり私を取り囲む。 よく見ると確かに私が売った客・・・間違いなく全員いる、お願いだからこんな事に労力を裂かないで。 ・・・もしや、私はこれだけの人数に腐った牛乳を人数分飲まされるのか? 「嫌っ、嫌ぁぁぁぁ!!死んじゃう、私そんなに飲んだら死んじゃうぅぅ!!」 「大丈夫、医療班がばっちりついてるからね!」 「そんなのつけなくていいから見逃してぇぇぇぇぇ!!!」  数時間後、やつれた顔色の悪い女商人が派手にお腹の音を鳴らしながらトイレに駆けこんだ姿が見られたとか。