『蟻の巣』 モロク北東の砂漠は年中酷い砂嵐に覆われていて、迂闊にも軽装で横断しようとした私達が その黄色い襲撃から逃れようと、突如目の前に現れた地下空洞に避難したのも当然の成り行きであった。 ようやく砂の猛威から逃れて、お互い衣服にびっしりこびりついた砂を手で払っていく。 ペコペコのように黄色かった姿が次第に薄くなっていき、その下から いささか子供っぽく見える赤髪の騎士の青年と、濃紺の聖職者衣を纏った銀髪の少女―私が現れた。 「ぺっぺっ、酷い目に遭った…まだ口の中が砂っぽい」 「ねぇ、これからどうするの?」 そうなのだ。確かに砂嵐からは今は逃れられたけど、いつかはまた外に出ないといけないから、 それでは元の木阿弥だ。 「この洞窟のどこかに、他の場所に繋がっている出口があるかもしれない、それを探して行ってみよう」 彼が提案した。 「そうね…それしかないかも。でも少し疲れちゃったから休ませて」 そういって返事を待つ前に私は洞窟の壁に背をもたれかけて座り込む。 その拍子に、頭上のビレタが銀色の髪のおさげを撫でるようにして、すとんと地面に落ちた。 するとどこから現れたのか、アンドレがビレタを抱え込んで逃げ去ろうとしていた。 ぷちり、と彼が容易く剣先でアンドレを潰す。 「なにやってるんだよ…ほれ」 そういってビレタを私に手渡す。やれやれ、仕方ないなぁという表情だ。 ビレタを被りなおした私は、疲れが残っていたけれども立ち上がり、 「行きましょう」と言った。彼を待たせたくなかったからだ。 洞窟は砂漠の地下に在るにもかかわらず、砂っぽさはなく、岩石と土で構成されていた。 時折、アンドレやドレインリアーを見かける程度で、 それらは支援魔法を主に習得した私にはどうすることもできなかったが、 彼にとっては軽く剣を振るだけで容易く倒すことができる類のものであった。 脅威となるようなモンスターは居ないのかもしれない。 私達はやや安堵して、探索を続け歩いていた。 その時、視界の端に見慣れないものが見えた。 「ねぇ、あれなにかしら?」 その小人は煙草をふかせながら、二人を値踏みするかのようにじろじろ見ていた。 「あれはガイアスじゃないか。おい、知ってるかい、あいつの耳は 加工すればいい装飾品になるんだぜ。こいつはいいものを見つけた、おい、捕まえよう」 そういって彼は返事も待たずにガイアスを捕獲しようと走り出した。 ガイアスは一瞬早く彼の手を逃れて、ひょこっとあらぬ方向へ逃げ出す。 「あっ、畜生。待ちやがれ」 突然鬼ごっこをはじめた彼に、まったく子供なんだからと苦笑を浮かべた私は 彼を追いかけようとして駆け出そうとしたが、足元の石かなにかに躓いてその場で転んでしまった。 ばらばら、とブルージェムストーンやポーションの類がこぼれてしまい、その途端 多数のアンドレやピエールが群がってきて、それらを抱えて方々に散ってしまった。 「あいたたた…ああ、ジェムが…」 アイテム袋の中身を覗いても、ほとんどは蟻たちに持ち去られてしまったようで 転んだ時に石か何かで砕いてしまったジェムの不完全な破片が残っているだけだった。 彼は私の異変にも気付かずガイアスを追っかけている。 もう仕方ないんだから、と私はそのまま彼を再び追いかけた。 再び彼に追いついた時、ずいぶん奥まで来てしまっていた。 こころなしか、さっきより鬱蒼とした雰囲気になったように思える。 「ちょっと、置いて行かないでよ。こっちはジェムなくなったりで散々だったんだからね」 「えっ?なんかあったのか?」 事情を説明すると彼もようやくちょっと申し訳なさそうにしたが、 「ごめんごめん、でもほら見ろよ、この耳が売れればジェムなんていくらでも また買ってあげるよ」 そういって、妖精の耳を自慢気にかかげている。 「もう…子供なんだからぁ……ふふっ」 彼のその無邪気さに私は怒る気もなくして、つい笑みがこぼれてしまった。 ―――小さな黒い影が音一つ立てずに、しかし目にも止まらぬ速さで、 陰鬱とした洞窟のじめじめした地面の風景を後ろへ流し二人の足元へ向かう。 やがて影と彼が重なり、彼は足元にちくりとした痛みを感じた。 「あ痛っ!」 見ると、彼の足元の重厚なブーツの上から、黒い蛇が鋭利な毒牙を突き立てている。 「何だこいつは、くそっくそっ」 彼は剣を地面にざくりと突き立てるようにして、そのまま蛇の首を両断した。 頭を失った蛇の身体は、頭を探しているかのようにその場で狂ったようにうねうねと蛇行して暴れている。 彼が未だ足に齧りついたままの蛇の頭を手で外し、ブーツを脱いで傷口を見てみると、 毒牙が身体にまで到達していたようで、ふくらはぎに二つの穴が空いていた。 その周辺はすでに毒々しい紫色に変色している。私は顔色を変えた。 「ねぇ…今の蛇って、猛毒のサイドワインダーよ…」 「えっ…それって、もしかして俺、このままだとやばいの…?」 重々しくこくりと頷く。 自身が死の淵に立たされていることを急に把握した彼は、途端に錯乱して、泣き言を言い始めた。 「どっっどど、どうしよう、死にたくないよ、早く治して治して」 しかし元よりこんな洞窟の奥では満足に治療する術などあるはずもなく、 緊急用の緑ポーションでさえ、転んだ時になくしてしまっていた。 「もういやだ、街に帰ろう。帰ろうよ。俺死にたくないよ」 私も泣きたい気持ちであった。もはや歩いて出口を探すどころではない。 一刻の猶予もないのだ。毒が全身にまわってしまえば手遅れになってしまう。 でも… その時、新たな黒い影が彼の剥き出しの足をめがけて来るのに気付き、 私はひっと息を呑んだ。あれは――アクラウスだ。 私のただならぬ様子に我に返った彼が剣を咄嗟に手に取り、その醜悪な昆虫につき立てた。 「くっ、なんだこいつはっ!」 アクラウスはべちゃっと不快な音を立てて潰れ、濃緑色の体液を撒き散らして絶命した。 アクラウスが居るということはこの近くには――。 思い出した。脅威となるモンスターは居るんだった。ここは安全な洞窟なんかじゃない、ここは―。 彼だけでなく自身にも這寄りつつある死の恐怖に身体を震わせた。迷いを振り切って詠唱した。 「Warp Portal!!」 詠唱とともに、暗黒の中を光の柱が仄かに照らす。 途端、光の柱の向こう、反対側の壁に巨大な影が、ぼう、と浮かび上がる。 その影に勝るとも劣らないほど巨大なそれは此方に一直線に向かってくる。 「はやく、はやくのってーーーーーーーー」 どちらともつかない絶叫に弾かれるように、彼は私の手を取って光の中に飛び込んだ。 ――助かった。眼前に迫るそれ――女王蟻の魔の手から辛くも逃げられたんだ。 私は転送によって次第に薄くなる彼と自身の身体を見て、安堵した。 ――――――ぼとり。 視界が低くなる。地面がなくなった? それにいつまでたっても転送が終わらない。 いや、もうポータルの光は消えている。洞窟内は再び暗黒に閉ざされている。 転送は終わっている?それならなぜ私は――? 途端気付いた。まるで狂ったかのような絶叫が聞こえる。誰の? 「わたしの、わたしの、わたしのからっ、かららっ、からだが」 「アアああぁァあーーーーーーーーーーーーーーイヤァァアアぁあァーーーーーーーー」 それは私の狂気の叫びであった。 不完全なブルージェムストーンで呼び出されたワープポータルは十分な転送能力を持たない。 ブルージェムストーンの僅かな破片で呼び出されたワープポータルは、 彼と、私の首から下までを転送した時点でその能力を失したのだった。 ワープポータルで首から下を転送されて、頭だけになった私は、支えを失って地面にその首を転がしたのだった。 さらに私にとって悪いことには、首は切断されたのではなく、身体と空間を隔てて存在しているだけなので 意識ははっきりしているし、それだけでは命に別状はなかった。 先ほど彼が倒したサイドワインダーの気分を、今度は私が味わっていた。 ビレタはまたぱさりと地面に落ちたが、もう被りなおすことは永遠にできそうになかった。 自身の状況に絶望する間もなく、眼前に女王蟻と無数のアクラウス、そして蟻達が迫っていた。 「やっぱり、ジェム無いのにポータル出すんじゃなかったな…あはは」 私はなぜか笑っていた。いや泣いていたのかもしれない。死を覚悟した。むしろ死にたかった。 アンドレが私の首に顎を立てる。ちくちくと痛み、柔らかい首の筋肉に何度もがじりがじりと噛み付いて、 表皮、真皮、皮下脂肪、筋肉を纏めて齧りとって、私の目の前でそれをころころ転がして 肉団子にしている。毛細血管が同時にぷちぷち引き千切られたのだろう、血が滲む感じがする。 だが、マヤーとアクラウスはなぜかこちらを遠巻きに見ているだけだ。 ここの生物ヒエラルキーの頂点であるマヤーが、我が子アンドレの行動を最優先にさせてくれているのだろう。 そうして無数のアンドレ、ピエール、デニーロに少しずつ齧られた私の首は 月のクレーターのように、無数の小さな穴だらけになってしまった。 だがいずれも致命傷には至らない。いっそ殺して欲しいと思っているのに。 そして私の首を思うがままに齧った蟻達は他のモンスターと共に、なぜか興味を失ったかのように 潮が引くように一匹残らず去ってしまった。 ――どのくらい時間が経ったのだろう。 ただ一人、人知れぬ暗黒の洞窟の奥で、首だけになった私は狂ったように泣き叫び やがて意識を失っていたが、首の辺りの妙な感触で目覚めた。 傷が塞がってきつつあるのだろうか。 いや、違う。無数の何かが蠢いている感触がする。だが何かはわからない。 意識すると痒みが酷くなってきた。首の辺りを何か微細なものが多数這っている。 見えない、見えない。怖い、怖い。一体何が居るのだろう。私はどうなってしまうのだろう。 痒みは私の首の傷痕をぷちゅりと食い破り、そこから皮下に入り込み、 真皮の下、皮下脂肪をばりばりと食べながら、徐々に頭部の方に向かってくる。 それが目の前を横切った。蟻の幼虫であった。 顔面の下を無数の蟻の幼虫がうじゃうじゃ這いまわっているのだ。 猛烈に痒いのに今の私は掻くことができないのだ。 すぐ傍らの地面の石に顔を擦り付けて痒みから逃れようと、 顔じゅうに力を込めてその方へ倒れようとしたが、それは徒労に終わった。 幼虫が移動するたびにその部分の表皮がぽこりと盛り上がる。 無数の幼虫に押し上げられ顔中が浮腫んだようになり、さらにそれらが各々好き勝手に 移動を続けているので、私はその都度、怒ったり、泣いたり、笑ったりと 様様な表情に見えていたことであろう。 皮下の神経を直に無数の足が刺激し、悲鳴をあげる力はもう残っていなかった。 生きてはいるものの物言わぬ肉塊と化した私を絶好の宿主とした幼虫達は、 首、顎、口、頬、鼻、耳、額、頭皮と、順に下から私の皮下脂肪をすっかり 食い尽くし、顔面筋肉から私の皮膚は乖離してべこべこと浮いてしまっていた。 皮膚はやがて乾燥してぼろぼろと自然に剥がれ落ちる。 顔面筋肉が直に晒され、外気の刺激と相俟って今度は刺すような痛みが襲ってきた。 このような有様になっても痛覚だけはまだ鈍っていないことを呪った。 顔面を針山にされて、海栗のように無数のまち針を立てられたとしてもこのような 痛みにはならないであろう。 皮下脂肪を食い尽くした幼虫は今度は筋肉をがじりがじりと食べ始めた。 器用に筋肉の小さな筋をぷちんぷちんと端から千切り、そうめんを啜るかのように ちゅるちゅると食べていく。このときの私は痛みではなくなぜか快感を感じて―いた。 幼虫は筋肉だけを器用に食べ尽くし―たようだ。あとには顔面じゅうに 剥き出しになった―毛細血管が網の目のよう―に浮かび上がっ―ている―のだろう― 私は何かに似ているな―と―思った―― そう―だ、これは―――   ―――――――――――――蟻の…巣… だ………………… プロンテラの街、数多くの冒険者が集まる広場に突如転送された彼と彼女を見て広場は大混乱に陥った。 「うわっあああああああぁぁぁぁぁ首なし死体だぁ」 「キャアアアアアアッアァァァ、ひっ、ヒィィィイ」 「お化けだぁぁお助けをっ」 「あっ衛兵さんこっちです!あの男が犯人です!」 彼は首なし殺人の凶悪犯として有無を言わさず逮捕された。 彼はその間、糸が切れたマリオネットのように微動だにせず、されるが侭であった。 彼は後悔していた。 ――あそこは蟻の巣だったんだ。確かに普段は脅威になるモンスターは居ないけど、 時折、女王蟻、マヤーが徘徊する危険極まりない場所だったんだ。 そして不完全なブルージェムストーンで呼び出されたワープポータルは十分な転送能力を持たない。 それを彼女は知っていたんだ。だから迷っていたんだ。それなのに、それなのに――。 無理もない、彼は彼女の変わり果てた姿を見た途端気が触れたのだから。 牢獄に収監された彼に衛兵長が尋問に来た時には、彼は毒が身体中に回ってすでに事切れていた。 そして首なし死体―いや、死体ではないのだが―はあれだけ目撃者がいたにもかかわらず、 所在が全く不明であった。ただ一度、モロクの砂漠の砂嵐の中で、首の無い聖職者が 亡羊とした様で静かに立っていたと語る者がいたが、流言の類と一笑に付された。 彼女は今でも、自分の首を探して何処かを彷徨っているのだろうか――。