少女は草むらをかき分け、必死で逃げていた。 小柄だがよく引き締まった身体。動きを阻害しないようにぴったりとした青い服と、まだ真新しい胸当て。そして、背中に背負った弓と矢筒。アーチャーとして冒険に出て間もないのだろう。 息が切れ、足がもつれて何度も転びそうになる。だが立ち止まっている余裕など無い。一瞬だけ後ろを振り返ると、身体に鞭打ってまた走り出す。奴らに追いつかれたら、待っているのは確実な死なのだから。 広大なミョルニール山脈の裾野に広がる、フローラの群生地。ここには遠距離射撃を得意とするアーチャーや、薬品材料を採取しようとするアルケミストといった者達が多く訪れる。だが決して油断してはならない。フローラやマンドラゴラ、その他の巨大な植物にまぎれて、恐るべき怪物が犠牲者を求めてうろついているのだ。そう、今まさにこの少女を追い詰めようとしている、奴らが――。 息も絶え絶えに、大きな草の根元を回りこむと、彼女はちらりと後ろの様子をうかがってみる。奴らの姿は見えない。振り切ったのだろうか? 奴らの足はそんなに速くはないし、目もいい方ではない。だから走って振り切ってしまえば大丈夫だと、先輩のハンターから教わった。 たぶん、これだけ走れば大丈夫だろう。それに、走り続ける体力も限界に近い。少女は草の根元にへたり込むように腰を下ろすと、息を整えようと深呼吸を繰り返した。必死で逃げていた精神状態が落ち着くと、つい先ほどの光景が嫌でも蘇ってくる。それは、思い出すだけでも恐ろしい光景だった。 ――あの時。フローラに狙いを定めようとしたその時。 草を押し倒しながら、奴らが襲ってきた。血のように赤い外殻を持つ大ムカデ、アルギオペ。その顎は、人間の身体を鎧ごとやすやすと引き裂くという。一匹でも脅威であるそれが数匹、群れとなって迫ってきたのだ。 アーチャーより近くにいた女アルケミストがまず襲われた。逃げようと身を翻した次の瞬間、彼女の姿は草むらの向こうに消えていた。強靭な顎で足に喰らい付かれ、地面に引きずり倒されたのだ。そこへ向けて、後からやってきたアルギオペが次々に踊りかかっていく。 「いやぁぁっ! 助けっ……ぎゃあぁぁぁぁっ!!」 助けを求める悲鳴はすぐさま断末魔の絶叫へと変わった。周囲の草にびしゃり、と赤いものが散る。 突然の出来事に、弓手の少女は呆然としていた。だが、女アルケミストの身に何が起こったのか理解するよりも早く、本能が危険を告げた。 ここから逃げるんだ! 少しでも遠くへ! 少しでも早く! アルギオペが群がるその場所からは、もはや悲鳴も絶叫も聞こえない。代わりに聞こえてくるのは、何かがへし折られる音、何かをむしり取るような音、何かをすする音……。それらを背に聞きながら、彼女は駆け出していた。草むらの向こうでどんな惨劇が繰り広げられているのか、考えたくも無かった。 奴らが向かってこないうちに、少しでも離れなくては――。 「げほっ……ぇほっ!」 女アルケミストの辿ったおぞましい末路を思って、少女は激しく嘔吐した。涙がぼろぼろと零れる。彼女は死に、自分は助かった。両者の命運を分けたのはささいな場所の違い。アルギオペの餌食になっていたのは自分だったかもしれないのだ。 冒険者として生きることがどういう意味を持つのか、わかっているつもりだった。だが、実際に人が死ぬのを間近で見るのは初めてだった。それも、あんな、むごい――。 「ひくっ……ぐすっ、うぅ……」 膝を抱えて嗚咽する。胸の中がぐるぐると渦を巻いて、気持ちが悪い。今は何も考えたくなかった。そのまましばらく、弓手の少女はうずくまったまま動こうとしなかった。 だから、彼女がそれに気づかなかったのも無理はないかもしれない。 ひとしきり泣いて気持ちの落ち着いたアーチャーが、再び周囲に注意を向けた時――彼女は、自分の置かれた状況に気づいた。すぐ近くの草むらで、巨大なものが蠢く気配がする。 いつの間にか、アルギオペがすぐ近くまで迫ってきていたのだ。背筋を冷たいものが駆け上る。 どうしよう……どうしよう! 逃げなければ。早く立って、早く! パニックになりそうな心を抑え、よろめきながら立ち上がったその瞬間。目の前の草むらから、巨大な影が姿を現した。距離はわずかもない。一挙動でアルギオペは少女の腹を食い破るだろう。 「シュゥゥゥッ!!」 哀れな獲物に飛び掛ろうと、アルギオペが身体を持ち上げる。その牙には、べっとりと血がこびり付いていた。女アルケミストの悲鳴が、アーチャーの脳裏に蘇った。 「うわぁぁぁっ!」 夢中で弓を構え、矢を放つ。まさに電光石火の一撃。彼女の祈りが通じたか、矢はアルギオペの眉間を貫いていた。だがアルギオペはひるむどころか、猛ったように牙を剥いた。 思わず後じさった瞬間、彼女は尻餅をついていた。そこへアルギオペの牙がまっすぐ迫ってくる。かわせない。丸く冷たい目に、恐怖に歪んだ自分の顔が映っていた。 「ひっ……!」 とっさに身体をかばうように突き出した左腕に、激痛が走った。 「ぎゃぅっ!? あ、がぁぁぁぁっ!!」 体勢が崩れたせいか、身体に噛みつかれはしなかった。だが代わりに、彼女の左腕はアルギオペの顎にがっちりと捕らえられていた。そのまま、勢いよく振り回される。小柄な身体が為す術なく宙を舞い、仰向けに地面に叩きつけられる。骨の折れる鈍い音。ぶちぶち、と筋肉が引きちぎれる嫌な音。見れば、左腕は肘から喰いちぎられていた。 (ああ、あ……私の腕……私、もう……弓を引けなくなっちゃった……) 錯乱した意識の中で、弓手の少女は呆然とそんなことを考えた。 再びアルギオペが首をもたげる。 少女は地面に腰をついたまま、上体をかろうじて起こした体勢でそれを見ていた。もう逃げられない。振り回されたときに弓は飛んでいってしまったし、どのみち片腕では射ることはできない。喰い千切られた左腕からは出血が止まらず、地面に血溜まりが広がっていく。 (私、このまま死ぬの……? やだ……そんなのやだよっ……!) 恐怖がこみ上げ、涙があふれる。 よたよたと後じさる右手に、何かが触れた。道具袋の奥にしまい込んだまま、すっかり忘れていたもの。冒険に出る時、お守り代わりにと持たされた短剣だった。 無我夢中でそれをひっつかむと、口に咥えて鞘から引き抜く。ちっぽけなその刀身は、目の前に立ち塞がる怪物に対して、あまりに頼りない。それに、短剣の扱いは素人同然だ。 それでも、このまま殺されるのを待つよりはずっといい。 震える手で短剣の切っ先を突きつける。表情の無いアルギオペの目が、細められたような気がした。様子をうかがうかのように、ほんの数歩分だけ、彼女ににじり寄る。 「こ……来ないでっ! 来ないでよぉっ!!」 泣きじゃくりながら、めちゃくちゃに短剣を振り回し、後じさる。左腕からはぼたぼたと血がこぼれ続け、地面に赤い河をつくっていく。 アルギオペは彼女の鬼気迫る様子に警戒しているのか、それとも手負いの獲物を弄んでいるのか、キチキチと牙を鳴らしながら、一挙動の距離を保ったままついてくる。 少女は忘れていた。危険はアルギオペではないことを。 彼女はアーチャーだった。だからそれは彼女にとって格好の獲物だった。不用意に近づけば危険だと言うことは、もちろん理解していただろう。だが逆に、近づきさえしなければ大丈夫だと言う、無意識の油断があったのかも知れない。 少女は今まさに、「それ」が仕掛けた恐るべき罠に落ちようとしていた。 ふと、尻に何かが触れた。地面を這う蔓だ。その違和感に気づいたときは、もう遅かった。それがわずかに蠢いた、と思う間もなく、ざわりと葉が揺れる。 頭上から迫り来る気配に振り返った彼女が見たものは、視界いっぱいに広がる毒々しい色彩。人間のそれを醜悪にデフォルメしたような巨大な歯列。 巨大な肉食植物、フローラ。 周囲の地面に張り巡らした蔓で獲物が近づいたことを察知したフローラの花弁は、巨大な顎となってアーチャーに襲い掛かった。悲鳴をあげる暇すら、彼女には与えられなかった。恐怖に固まったその上半身にフローラが喰らい付く。びしゃぁっ! と派手な血飛沫が上がった。 フローラは彼女の上半身をすっぽりと咥えこむと、空中に軽々と持ち上げた。巨大な歯は一撃で彼女の胴を半ば断ち切っていた。だがそれでは終わらない。獲物を完全に喰い千切るべく、さらに深く食い込んでいく。 「ひぎぁぁっ! ぎぁう、がっ……!」 先ほど腕を食われた時を上回るすさまじい激痛に、アーチャーらしい、引き締まった脚がめちゃくちゃに暴れ回る。毒々しい花弁から伸びた少女の脚が空中でもがく様は、奇妙に艶かしくもある光景だった。肉片と鮮血がぼたぼたと飛び散って、周囲の地面や下草を赤く染めていく。 フローラの中は奇妙に温かかった。歯が胴に食い込むにつれ、彼女を包み込む花弁が膨張して、全身を締め上げる。ミシミシと骨がきしむ。 (いや……こんなのいやっ! まだ死にたくない! 助けて、助けてっ……!!) 「あ゛ァぁアァ゛ァ……ッ!!」 肺から残りわずかな空気が押し出され、悲鳴とも呻きともつかぬ音が死のあぎとの内側からこぼれ出る。だがそれもわずかな間のことで――背骨が砕ける鈍い音と共に、彼女の胴は完全に断ち切られた。少女は激痛にかき消されてゆく意識の中で、自分の下半身の感覚が失われたのを理解した。 (やだ……痛い、よ……お父さん、お母さん……わた、し……死にた、く、な……) 最後に自分の胸が、肋骨が、内臓が、背骨が、頭が、押し潰される音を聞いて―― 少女の意識は、永遠に失われた。 フローラの膨れ上がった花弁が、鈍い音と共に一回り小さくなる。ぴったりと閉じた花弁の隙間から、血が幾筋かしたたり落ちた。 それと同時に、腰から上を無残に喰いちぎられた人間の残骸が、地面に転がり落ちた。待ち受けていたかのように、アルギオペと、どこからともなく現れた雄盗蟲の群れが、びくびくと痙攣を続ける肉塊に群がり、先を争って貪りはじめた。 フローラは満足げに花弁をもう数度蠢かすと、久々の獲物をじっくりと消化に取りかかった。 しばらくして、アルギオペたちが立ち去ってしまうと、この場所には再び静寂が訪れた。 哀れなアーチャーの少女の姿は、もうどこにも無い。置き忘れられたように転がった短剣と、血にまみれたわずかな衣服の切れ端だけが、少女がこの世に存在していた痕跡を示していた。 〈了〉