ミョルニール山脈の中の一つの山。針ねずみや熊が見え隠れする山頂に、一人の少女が現れた。 「はぁ…ゲフェンからここまで歩いてくるのも楽じゃないわねー…」 額の珠のような汗を拭い、呟いた。そんな声もすぐに風にかき消されてゆく。 冷たい風が気持ちいい。燃えるような赤い髪が揺れた。 「さーて、始めるとしますかー」 アーチャーの少女は、気楽な声を上げると目の前の大きな吊り橋を進み始めた。 少女が橋を渡って1時間程経っただろうか。 巨大で奇怪な植物が群生する山の頂に少女はいた。 「楽勝楽勝〜♪」 鈍足のアルゴスとビッグフットは距離を開けば敵ではない。フローラは近付かなければいい。 強力な遠距離攻撃を持つアーチャーにとってこの山は絶好の狩り場であった。 「そろそろ帰ろかな…炎の矢も切れそうだし、疲れてきたし」 誰に言うとでもなく呟く。実際、彼女はかなり疲労していた。 ──その疲労が彼女の油断を生み出した。 「おっしゃ、フローラ発見〜♪」 アーチャーは矢を弓につがえ、弦を引き絞った。キリキリという心地よい音が集中力を向上させる。 数メートル先に生えるフローラに狙いをつけた。背後から忍び寄るアルゴスに気付かぬまま。 矢を放とうとしたその瞬間、 「うあっ!?」 巨大な蜘蛛の不気味な前足がアーチャーの背中に叩き付けられた。 体勢を崩され、炎の矢はあらぬ方向へ飛んで行き…ビッグフットの右目に命中した。 (ヤ、ヤバイッ!?) 2匹に囲まれてしまえば勝ち目はない。 怒りの咆哮を上げながらビッグフットが突進してくる。 が、幸いなことにビッグフット自身足が遅く、距離がかなり開いている。 アルゴスさえなんとかできれば逃げ切れる。アーチャーはそう判断した。 振り向くと、アルゴスはまさに少女に覆いかぶさり噛み付こうとしているところだった。 アーチャーはとっさにアルゴスの胴体に蹴りを入れた。 アルゴスがひるんだ隙に、少女の身体を掴む前足を振り払い立ち上がる。 よし、逃げられる。そう思ったアーチャーは即座に駆け出した。 が、その刹那、何かに左足をとられて転んでしまった。 振り返ると、左足に白い蜘蛛の糸が巻き付いている。アルゴスが飛ばしたものだろう。 糸を引きちぎる間もなく、少女の身体が引きずられる。 その先にはアルゴスが牙をむき出しにして待ち構えていた。 「ひっ……!!」 蜘蛛のおぞましい姿に、一瞬たじろぐアーチャー。 その一瞬の隙に、アルゴスが次の糸を吐き出し、アーチャーの右腕の自由を奪った。 少女はとっさにナイフを取り出そうとするが時すでに遅く、アルゴスに完全に捕獲されてしまった。 「嫌ッ!やめて!離せぇ!!!」 普段の鈍足からは考えられない程、素早く糸を巻きつけてゆくアルゴス。 アーチャーの少女は文字通り手も足も出なくなってしまった。 アルゴスが牙をむき、嘲笑ったかのように見えた。 次の瞬間、アルゴスは捕獲した少女の胸に噛み付いていた。 「うああああっ!!あ、あああ…ひっ…」 牙から何かが注入されているのがわかる。やがて身体が痙攣を始めた。 アルゴスの毒だろう。糸の呪縛から逃れるどころか、まともに身体を動かすこともできなくなった。 アーチャーは以前本で読んだことを思い出していた。 体内に回った蜘蛛の毒は、動きを奪うと同時に肉を溶かしてしまうのだという。 アーチャーの脳裏に『死』という単語が浮かぶ。嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ死にたくない死にたくない。 薄れていく意識。が、それは激痛によって強引に引き戻された。 「ぐあッ!!!」 強烈な衝撃に、少女の軽い身体は撥ね飛ばされ数メートル転がった。 おかげでアルゴスからは離れたが、毒と痛みで動くことはできない。 右腕に電撃のように痛みが走る。どうやら一撃で骨が折れてしまったようだ。 何が起きたのか。アルゴスがいたであろう方向を見てみると、片目に矢が刺さったビッグフット。 残った眼に狂気を宿し、アーチャーに向かって歩いてくる。 逃げることはできない。ビッグフットが数メートルを歩くだけの時間が永遠にも思えた。 心は恐怖で染まっている。目の前にあるのは絶対的な『死』 大熊は少女の傍で止まると、その巨大な腕をアーチャーに向かって振り下ろした。 「ぎゃあああああああ!!!!」 容赦のない一撃を放つビッグフット。少女は大量の吐血をする。 「ぐぶっ!!ゴボゴボッ…」 もはや声にもならない悲鳴が口から漏れる。吐血の量を見るに、内臓がいくつか潰れたようだ。 意識は朦朧とし、身体を動かそうにも痙攣するばかりのアーチャー。 ビッグフットの次の攻撃が放たれ、そこで少女の意識は途切れた。 しばらくして、激痛の中我に返るアーチャー。虚ろだった眼に光が戻る。 ここはどこなんだろう。周囲を見ると、赤い果肉のようなものに覆われている事に気付く。 壁からは透けて光が入るのか、真っ暗ということはなかった。 そして、彼女の身体はぬるぬるした液体で濡れていた。何が起きたのかさっぱりわからなかった。 飛ばされた勢いで巨大植物の中にでも落ちたのだろうか?そう思うことにした。 ミョルニル山脈に群生する植物には、恐ろしく巨大な花を咲かせるものもある。 あれなら人一人くらい覆い隠してしまうだろう。 アルゴスとビッグフットの姿は見えない。助かった。 少女はとりあえず身体を休め、毒が抜けるのを待つことにした。体力が戻らないと糸からも抜けられない。 狩りとダメージによる疲労のためか、アーチャーはうとうとし始めた。 いつの間に眠ってしまったのか。 アーチャーの少女は目を覚ました。身体はまだ回復していない。動かそうとすると痺れるように痛む。 毒もまだ完全には抜けていないのか、身体がいうことを聞かない。 と、ここで違和感を覚えた。 全身を覆っていた蜘蛛の糸がいつの間にか無くなっている。 何故だろう…?とりあえず、なんとか左手を動かしてみる。 痛みと痺れの中で彼女が見たのは── 皮膚や肉は溶け、骨までもが見え隠れする自分の左腕だった。 「あああああああああああああああああ!!!!!!」 血を吐きながら絶叫する。鼓動が早まる。息が苦しい。 自分を覆う液体は消化液だった。アーチャーは自分がフローラに飲み込まれていたことを理解した。 ビッグフットに跳ね飛ばされた彼女は崖から落ち、下のフローラの群生地帯に落ちたのである。 脱出しようにも、身体は動かない。左手はもう使い物にならない。右腕は折れたまま。 よく見れば、少女の纏う衣服は殆ど溶けて無くなっていた。 裸で消化液の中に横たわっている。これから自分がどうなるか考えたくもなかった。 必死にもがこうとするが、身体が動かない。ふと自分の脚が視界に入った。 液溜まりに入っていたため、膝から先が完全に溶けて無くなっていた。 「嫌あああああああああああああああ!!!!!!!!!」 痛みはない。フローラの中はむしろ心地よいくらいだった。 怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い。 自分が溶けて無くなってゆく。もう何も考えられない。ただただ恐怖を感じるのみ。 少女の心は崩れ去った。